5~6人のスタッフの方々が、客席に背を向けてしゃがみ込んでいらして
「何やってるんだろ?」と思ったら、手にされたライトを当てて「蛍光バミリ」の充電?
「バックステージツアー」映像には「ム」「小」「杏」「コ」「平」
そして「ハートマーク」で、立ち位置を示してあるとの説明がありましたが
「ハートマーク」は沢庵様じゃないですよね?(笑)
さて、第2幕5場「刃(第2日・黄昏時)」は
武蔵、小次郎、沢庵様、宗矩殿、平心さん、乙女さん、まいさんの7人が
それぞれ静かに歩行禅を行っているところから始まり…
時折、己れの思考に集中し過ぎて、庭のあちらこちらでコツンと突き当たる場面が発生(苦笑)
沢庵様とぶつかった宗矩殿は、侍に刀を抜かせない方法を相談し
武蔵は、乙女さんに「この恨み、私が断ち切ります」と言って
小太刀の刃を自分の方に向けたのは何故か?と訊ねるも、乙女さんはそれには答えず…
恨みの鎖を断ったあとの「清々しくて、さっぱりした気分」を分けてあげたい
小次郎との恨みの鎖を断てば、きっとすっきりすると話したものの
武蔵は、果たし合いが終われば「私も今の乙女殿のように、すっきりしているはず」と返し
まいさんとぶつかった小次郎は「あなた方、剣の素人に見事に勝たせた、あの『無策の策』
武蔵のあの策にどう立ち向かえばよいか?それにすっかり心を奪われて」いたと詫び
「やはり試合をなさるのですね?」という、まいさんの質問に
大きく頷きながら「あの『無策の策』を目の当たりにした時の喜び!
ああ、自分は、またとない相手と再び刃を交えることが出来る!
剣客冥利に尽きるとはこのこと!小次郎は、つくづく幸せ者です!」と答え
まいさんが「恨みを断ち切った時の乙女殿のあの清々しい姿に、何かお感じになりませんでしたか?
私は、些細なことを悪く育てて、鉢巻を締めて、醜く意気込んでいた自分が
今は恥ずかしくてなりませぬ」と訴えても、一向に響いていない様子…(苦笑)
歩き禅が終了すると「沢庵様のお説法」が始まり
屋根付き廊下に(上手側から)小次郎、まいさん、宗矩殿、乙女さん、武蔵が座り
沢庵様が「我らの参籠禅も、ようやくその半ばに差し掛かった。今が最も疲れの出る頃であろう
この上、座禅を強いて『禅病』にでもなられては困るからな」と、月を愛でながらの雑談へ…
「禅病」を知らない乙女さんとまいさんには、それが「座禅に打ち込む者の持病」で
「心を見つめ、また見つめ、更に見つめしている内に、何がなんだか判らなく」なり
手足や腰は冷えているのに、頭の中はカッカと燃え、蝉時雨のような耳鳴りがしたり
悪い夢を見たり、食が細くなって痩せてやつれたり
周りのことが一切見えなくなってしまったりする…と説明
そしておもむろに、武蔵と小次郎に「初試合は幾つの時だった?」と訊ね
武蔵が「十三歳でした」と答えると「九歳です」と小次郎
「これまでに戦った試合の数は?」との質問に
武蔵は「六十までは覚えております。その間、一度も敗れることがありませんでした」と答え
小次郎が「目下、九十九連勝中です!」と、いちいちマウントを取りに来るので(笑)
武蔵は「舟島で敗れたのは誰だ!?」とブチ切れ(苦笑)
小次郎が「決着はまだ着いていない!明後日には、小次郎の勝ち数はちょうど百になる」と返し
「口達者な奴よ!」「貴様に学んだのよ!」と罵り合いが始まろうとした時
沢庵様が「そこまで剣にこだわる、その訳は何か?」と改まった様子で質問
小次郎が「まず、諸国の強豪と試合をして技を磨き、その全てに打ち勝ち、天下一を誇ること
次に、その天下一の功名手柄によって、百姓、町人の上に立つ栄誉を受けること
第三に、その栄誉を元に、某、佐々木小次郎の流儀『巌流』をあまねく天下に広めること
以上が某の道、この道での死は覚悟の上です」と話し
武蔵は「武士の一人として、常に生死の間に身を置くこと
今、某は佐々木小次郎という優れた剣客と膝を接して向き合っております
するともう、生きるか死ぬかしかない
このように、毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中に我が身を置いて
心と技とを絶えず鍛えて行くならば、やがて人格そのものも磨き上げられて
ついには全き人間になることが出来るでしょう
剣を唯一の友として、己の人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と答えると
「愚かだな、二人とも阿呆よ。人を殺しても出世したいという所が誠に愚かじゃ
人の命を踏みつけにした出世に、どんな値打ちがあるのか
ましてや、人を殺して築き上げた人格などというものには、三文の値打ちもあるまい
それが判らぬのは阿呆だからよ」とバッサリ(苦笑)
武蔵が「しかし、御坊!勝手に殺すのではありませんぞ
相手も承知の上の試合で、こう打ち合うのです
五分と五分の命のやり取りです」と反論し
小次郎も「こっちも死ぬかも知れないのだ!公明正大なものではないか!」と同意するも
「だから、お主たちの試合相手を含めて、みんな愚鈍で痴鈍で、おまけに暗鈍だと言っておるのだ!
更に、あの剣客にこの剣客、どっちが強いかと噂をしたり
わざわざ試合場まで出かけて行って、竹矢来を揺すって興奮したり
その結果を得意になって吹聴している連中を含めてみんな、鈍の鈍の行き詰まりだと言っておる
お主たちに人を斬る資格はない!この道理の判らぬ二本差しは皆、鈍鈍鈍の鈍鈍だよ」と言い
武蔵、小次郎それぞれに「某の三十五年間の努力は無駄ですか!そんなバカな…」
「小次郎の二十九年間には、血と汗と涙が詰まっている!無駄ではない!」と反発するのへ
「わしは仏法者として、人はみな仏である
従って、仏が仏を殺すことはならぬと堅く信じておる
だが、俗世間では、どうも様子が違うようでな
人が人を殺しても許されるとする場合が二つあるとしておる
一つ目、三種の神器を持つ側は、持たぬ側を殺してもよい
この国では、そういうことになっているらしい
鏡と剣と曲玉を持つ官軍は正義、それを持たぬ賊軍を殺してもよいと言うのだ
滑稽な理屈だな。三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる
そんなフラフラと揺れる正義など、正義とは言えませんよ」と説明すると
宗矩殿も「なるほど!源平合戦からこっち、全ての大乱は
どっちが三種の神器を持っているか?どっちが正義か?の争いだったかも知れぬ」と納得
更に「二つ目、悪人を一人斬れば、千人、万人が救われる時は
その悪人は殺すべしと言う人々がいる」との言葉には
「我が柳生新陰流は『争いごと無用』を金看板にしているが、ただ一つ例外があって
一人を殺すことによって、万人が救われる時は、殺すのが正義としている
活人剣…すなわち、人を活かす剣というのがそれよ」と反応
「活人剣を振るう時は、まず己れの心の中にある三つの毒を殺すこと、これが秘伝よ
欲張ること、怒ること、そして愚かなこと
昔、塚原卜伝先生と、父・石舟斎が、古い記録を調べている内に
『古の武士は皆、相手を斬る前にまず己れの心の内の三つの毒を切り捨ててから、相手に刃を向けた
首切り役人でさえ、そうであった』という記事にぶつかった
二人は、これに感じ入って、活人剣を発明した」と明かし
扇子を刀に見立て、胸の前に垂直に立ててから
手首を返して、刃を自分に向ける仕草をすると
乙女さんは「今朝の仇討ちで、なぜ自分がこうしたのか判らずにおりましたけれども
あの時の私は、心の中で暴れていた恨みの鎖を断ち切っていたのですね」と合点が行った様子
すると、突然、沢庵様が大きく手を打って
「刀を帯びているからには、侍はいつでも、それを抜いてよろしい」と言い出し、全員ビックリ!
宗矩殿がそばに寄って来て「いきなりどうした?」と訊ねると
「侍に刀を抜かせぬ策が出来た!刀を抜くことが出来るのは、心に三毒を持たない者だけ
(そんな完璧な人間はいないから)誰も刀を抜けない
こうして、侍の敵は、三毒を抱えている自分自身ということになる」と説明
宗矩殿が「なるほど!侍どもは、朝から晩まで、己れの心を覗き込むことになる訳だな
心を見つめ、また見つめ、更に見つめしている内に…禅病になるぞ!」と返すと
「全国諸藩三百万の侍どもを、一人残らず禅坊主にしてしまおう
それも禅病に取り憑かれた禅坊主にな」とご満悦(笑)
「知恵者だなあ!」と感嘆する宗矩殿と二人
「お代官様」と「越前屋」のように見えなくもない場面でございました(笑)
ただ、吉田鋼太郎さんご自身は、今回の七回忌追悼公演にあたり
この「三毒」を断ち切らなければ、刀の抜いてはいけないという言葉に「胸を突かれた」そうです
SNSは誰でも自由に発信出来るけれど、心ない言葉に傷つく人がいたり
時に、人を死に追いやったりすることもあり
自らを振り返らずに、簡単に言葉を刃として扱っていないだろうか?と
自問することが必要だと思ったとおっしゃってましたが
そう言えば…「いつも言葉は気ままなもの 僕を殺すことも出来る」と歌われた
ミュージシャンの方がいらっしゃいましたね?(笑)