古舘さんが「1979年っていうのは、甲斐バンドにとって、大変な節目だったと思うんですよ
他にもエポックはいっぱいあると思うけど…」と振られると
「1979年の甲斐バンド」というキャプションが出て…
甲斐さんは「まあ…『HERO』が売れて…っていう感じですよね
(『で『安奈』があって…』と古舘さん)
まっ、その…武道館が…始めたりとか、そういう…相当ナンか、色んなことが起きてますね」
…と公私共に激動でいらした年を思い出されているご様子?
古舘さんが「1979年の、その1月1日になる…
年が変わる…つまり、夜中の0時、12時ですよね
その時に、テレビの民放各局全て…NHK以外
公共放送以外の民放全てが…」話し始められたトコで
甲斐さんが「ピッピッピッピッピッ!って(12時に)なった瞬間に
一斉にコマーシャル…」と人差し指で秒針を表され
その件のCM…スプレー缶を手にされた甲斐さんが
「HERO」の文字を描かれるパターンのヤツ…が流れ
「今、ヒーローは誰か?」というナレーションをバックに
オリジナル甲斐バンドの皆さんが映って奥さん萌え~♪(笑)
「アレはもうスゴイです!スゴかったですね、ホント…
何十億のプロジェクトだと思うんですけど…
それを全て僕ら…僕に任せて貰える訳じゃないですか
でも、それは有り難かったですよね、そんな何十億のプロジェクト
『イヤ、書いて下さい』と言われたんで…」と甲斐さん
当時の甲斐バンドは、ライブの観客動員数は増えていたものの
「ヒットチャート1位」というタイトルはまだ手にされておらず
このタイアップに懸ける意気込みを「来年、俺たちは1位になります!」との言葉で表され
賛否両論ある中、当夜は、緊張と高ぶりを抱え、お一人で公共放送をご覧になっていて
危うくそのまま年を跨いでしまわれるところだったんですよね?(笑)
「HEROの世界観」というキャプションの下
古舘さんが「僕はもう、アレは自分の中でこびりついて離れないですよ、ヒットしてから…
『HERO』で『人生は路上のカクテルパーティー』って、よくぞ出ましたね」とおっしゃると
甲斐さんは「あと『痩せっぽちの俺たちが見えるだろう』って歌詞なんですよね
『HERO』で言いたかったこと、その2つなんですよ、そうなんです」と返されてましたが
「HERO」のこのフレーズと「破れたハートを売り物に」の
「生きることを素晴らしいと思いたい」という歌詞を挙げられ
「歌っていうのはホントに言いたいところ、実際2行くらいしかない
その前後の歌詞は前菜・後菜?でしかない(笑)
「歌っていうのはホントに言いたいところ、実際2行くらいしかない
その前後の歌詞は前菜・後菜?でしかない(笑)
これを歌いたいがために、膨大な作業をしてるみたいなところがあって…
ま、アホだね(笑)ホント、こんなことやってる人は…
そのアホさ加減がまた、たまらなかったりするんだけど(笑)」と話されてましたよね?(笑)
ともあれ…「『人生は路上のカクテルパーティー』っていうたまらなさ!」という古舘さんの言葉に
「絢爛たる美がありつつ、でもそれが路上じゃないですか
(『そう!そのミスマッチ!で、しかも、やや刹那的なね
カクテルだけでね、終わっちまうみたいな…』と古舘さん)
そう!僕、その時代を制してる人たちって
その時代で一番速い疾走感がある人たちだと思ってるんですよ
その時代一番疾走感があるアーティストこそが
一番その時代を制することが出来ると思ってるんで…
それ絶対…その時、僕ら、たぶん相当疾走感があったと思うんですよ」
…と、当時よく口になさっていたという持論を披露なさってましたが
当時の奥さんは、その「HERO」より更に疾走感が増した「感触」
そして「漂泊者」というシングルリリースの流れや
甲斐さんの発言、ライブパフォーマンスなどを見聞きして
「この人は生き急ぎ過ぎてる」と心配したらしい(苦笑)
それはともかく…「結局、成功したヤツの話なんて面白くないじゃないですか
今から…今から勝ち取りたいと思ってる
アクション起こそうとしてる者の話を書かないと…」
という甲斐さんの言葉がQ代わりとなりライブシーンの「HERO」へ…
松藤さんと上原さんのツインドラムに、岡沢さんのベース
「世田谷区に7人くらいいる(笑)」というマック清水さんのパーカッション…って
このリズムセクションは、1986年解散の「パーティー」ツアーの再現らしく
奥さんは「そういえば、岡沢さんは薬師寺ライブで復帰したんだった…」と遠い目(笑)
メンバー紹介の時に、甲斐さんが「帰って来てくれた!」と
嬉しそうになさっていたのを思い出したみたいだけど
今年、復帰された上原さんのことは、あまり印象に残っていなかったようで(失礼!)
リズムセクションどーのと言うより、ただベーシストの方が好きなだけなんじゃないかと…?(笑)
その「HERO」のライブシーンが終わると「ニューヨークでのレコーディング」について…
古舘さんが「甲斐さんさ、あのー、ニューヨークでのレコーディングに…
10年以上かなあ?結構こだわっていて…
僕なんか素人だからホンットに訊きたいんですけど
ニューヨークでレコーディングする根本ってのは?」と質問され
甲斐さんは「あのー、日本だと、僕らが欲しいリバーブ…エコー
僕が欲しいリバーブが、日本だと、それがナカナカ出来なかったんですよ
欧米諸国は、スタジオって大抵エコールームが別にあるんですけど
スタジオと別にエコーのための部屋って用意されてて…
それで…それが反響してナカナカ良いエコーが…リバーブが出来るんですけど
日本は、そういう…ナンての?贅沢な造りじゃないから、スタジオが…
だから全部、機械で作るんですよ
やっぱり、ふくよかで豊かなリバーブは手に入らないんですよ
それでもう結構、僕らは…それで僕は限界に来てて…
ある時に…まっ、これ、ホントにもう偶然なんですけど
あのー、その日、自分の車じゃなくて、タクシーでジムに行ったんですよ
そしたら、えーと…ストーンズの新作ってのがかかって…
まっ、それ『タトゥー・ユー』ってアルバムから『スタート・ミー・アップ』って言って
これはまあ、ビルボード1位になるんですけど
『スタート・ミー・アップ』かかって、強烈にナンかイイんですよ
強くて、良いリバーブだなあと思って…
で、夕方、ジムを終えて、またタクシーで帰って来る時に
えー、ロキシー・ミュージックの『アヴァロン』っていう曲がかかったんですよ
だから、タクシーだから、こういう…スピーカー小っちゃいじゃないですか
フツーの…ただの民生機だから…
その『アヴァロン』もスゴイ!ロキシー・ミュージック最高!で『なに?』って調べたら
これ、全く同じエンジニアなんですよ、ボブ・クリアマウンテンっていう…」
…と渡米なさるきっかけとなったエピソードを披露されたトコで
「ボブ・クリアマウンテン:サウンドエンジニア
ローリング・ストーンズやブルース・スプリングスティーン
ブライアン・アダムスらの作品を担当
80年代サウンドのひとつのモデルを作り上げた」というクレジットが出て
「『ああ、もう彼しかいない』と思って…
まっ、結局、その彼は80年代の時は『ほとんどボブがやる』くらいのね
『80年代は彼』みたいな存在になって行くんですけど…まあ、オファーをして
で…『破れたハートを売り物に』っていう曲のデモテープを送って
で、1ヶ月…1ヶ月か2ヶ月くらいですかね?かかったのかな?…で、やっと、あの…OK!」
…って、最初は、どうすればボブとコンタクトが取れるのか判らなくて
ナカナカ大変でいらしたみたいですが
その時の甲斐さんは「破れたハートを売り物に」の出来映えに納得されておらず
「やりたいことと、やらなければいけないことが判ってるのに
どこで誰とやっていいか判らない、そんな状態が続いてたからね
18ヶ月間ずっと、新しいスタイルをやろうと思っていて
『破れたハートを売り物に』が漸く出来たわけ
でも、チャートは50位どまりだった…怨念というより、意地だよね
でも、ボブが、僕らのテープを聴いて『破れたハートを売り物に』が良いって言って
この仕事が始まった訳だから…」と、18ヶ月間悩んでおられたことを思えば
もう誰とどこで何をすればいいのかが判ったから、ずいぶん楽になった
…といったことをおっしゃっていたらしく
当時の奥さんは、デビュー間もない頃の甲斐さんが
バンドの在り方はもちろん、レコーディングのやり方など諸々の試行錯誤をなさっていた時も
「福岡にいた頃に比べると格段に幸せだよ、目の前にレールがあるんだから
そのレールに沿って、1歩1歩確実に進んで行けば、確実に栄光は手に入るんだからね
福岡にいた時代…つまり、そのレールの見えない時代
手探りで必死に探していた時代の方が、辛いと言えば、一番辛かったよ」
と、話されていたことを思い出したんだとか…