博多にその『照和』ってのがあって、そっからもうスゴイ連中が次々出て来て…
『来るぜ!』みたいなね、ニュースで…
『ここでウケたら東京へ来るぞ!』みたいなね感じ」と、当時の照和に対する印象を話されるも
甲斐さんは、照和に関する資料をご覧になっていたらしく「僕、今、ここに書いてあるの見たら
『照和』って、1970年の…ナンか、11月とかにオープンしてるんでしょ?」と逆質問(笑)
「で、これ、1970年ってことは、俺、高2なのね
僕、実は、高校2年生の時から歌い始めてるんですよ
『えっ!?』と思って…でも、考えたらさ、71年の3月まで高校2年生じゃないですか
だから、俺、考えたら、71年の2月の終わりくらいに(照和に)飛び入りで出たら
『君たち、高校生だよね?』って言われて
『ハイ』(と答えたら)『じゃあ、土日ヒマだよね?じゃ、来て!』って言われたんですよ
俺、木曜日かナンかに出たの、それ…
あの…要するに、KBCって地元の放送局があって
アマチュアのバンド歌わせる番組が始まったんですよ
で、他にもう1コ…『歌え若者』って言って、お化け番組があって…
(『歌え若者、イイですね!』と萩原さん)
うん!チューリップとか海援隊とか出るようなね
あっ!それ、たまにですよ、たまにしか出ない、どっちも…(出演者は)全部アマチュアですね
そういうお化け番組は大変なんですよ、その…応募すると受かるまでに…
(『出られるまでに色々とね?』と萩原さん)
そう!そう!そう!…で、その30分のちょっとチャチな番組があって(笑)
ナンか…『ショコラ・ヤング・ヤング・ナイト』っていう…(笑)
(『チャチなタイトルですね(笑)』)
そう!そしたら、それに…その…半田っていう
僕のグループのリードギターのヤツが応募したら(返事が)すぐ来て
『来週出て下さい』だったんですよ」と話されてましたが
その岸川均さんの番組によく出演なさっていた大森さんは
観覧席ではなくミキサールームで、収録をご覧になっていたらしく
いつものように「今日はどんなバンド?」とお訊ねになり
岸川さんが「うん、アイツら」とおっしゃったのが
甲斐さん率いる「ノーマン・ホイットフィールド」で
甲斐さんの歌声に「『ウァ、すげえ』じゃないのね『ドキッ』とした」そうだけど
その時は、バンド名をお知りになっただけで
「左利きで髪の毛が長い」「ルックスは目立った(笑)」
甲斐さんの歌声に「『ウァ、すげえ』じゃないのね『ドキッ』とした」そうだけど
その時は、バンド名をお知りになっただけで
「左利きで髪の毛が長い」「ルックスは目立った(笑)」
高校生の名前はご存知なかったんですよね?(笑)
でも、その後、照和で甲斐さんと再会され、即興でコラボなさったのが
甲斐バンド結成の始まりになったんだと思うと
この「チャチ」なタイトルのラジオ番組ご出演のエピソードも感慨深いですねぇ(笑)
ともあれ…「で、3曲やったのかな?それで、意気揚々と…
ナンか、そのまんま天神をうろついてて…」と甲斐さん
「それは、ラジオのスタジオで演奏したんですね?」という萩原さんの確認に
「そうそうそう!そうです、スイマセン
で、お客さんがナンか10人くらいいるのね、ちょっと、声だけ欲しいみたいな…(笑)
(『拍手がいるぞー!みたいなことですね?(笑)』)
そう!そう!そう!まっ、それ、チャチな拍手なんですけど(笑)」と返され
「そういうこと言わないで下さい(笑)」とツッコまれつつ(笑)
「そいで、そいで、ナンかこう…やっぱりちょっとさ、高揚してるじゃないですか
そしたら、この近くに…天神にその『照和』っていうのがあるよって…
で、僕、元々、生まれて育ったのが清川っていうトコなんで
歩いて10分くらいが天神なんですよ
だから、ほとんどド真ん中で生まれて育ってるから
僕は、その辺はもうウロウロしてたトコなんで
そいで『あっ、そうなんだ?』って、行ったら
まあ、これが、1階と2階が喫茶店なんですけど、地下にあるって言うんですよ
外から見たら真っ暗で(笑)、スゴイ物騒な感じなのね
でも、僕、元々、その清川っていう歓楽街で…
花街の中で育ってるから、そういうのナンともないんだけど
一緒にいるヤツが…そのグループの…『イヤ、怖いからヤメようよ』とか言うんですよ
だけど『イイじゃん!行こうよ!』って、ダーッと降りて行って…
で、こう…聴いてたら、福岡大学のカントリークラブかナンかのヤツらで
まっ、演奏は抜群に上手いんですよ、キングストン・トリオかナンかで…
だけど、すぐ飽きるの(笑)だって、自分たちの歌じゃないから、基本的にやってることがね
(『コピーですからね』)…そうそう、コピー
で、僕らもまだカバーやってる段階だったんですけど
ナンか、それ聴いて『あっ!(自分たちも)出来そうな気がするな』と思って
バーッと行って『歌わしてくれませんか?』って言ったら『あっ、じゃあ30分待って』って…
その頃、たぶんね、探してたんですよ、バンドを…
で、ナンと!4曲しか(レパートリーが)ないのに、40分(のステージを)やって
だから、MCやってたんだよね」と話されると
萩原さんは「あっ!曲が長いんじゃなくて?喋り?(笑)ベシャリが?(笑)」と大笑い(笑)
「だって、リードギター、生ギター…僕、サイドの生ギターでしょ
あと(ブルース)ハープだけで、3人でそんなそんな…
で、キャンド・ヒートの『ゴーイング・アップ・ザ・カントリー』とか
それから…ナンだっけ?(『もうCCRとかやってた?』と萩原さん)
そう!CCRやってた!やってた!CCR『フール・ストップ・ザ・レイン』とか
『ロディ』とか、ナンかそういうのやってた…4曲しかなかった
で、俺って、さっき言ったみたいに『じゃあ来て!日曜日』みたいな…
で、結局、僕らは結果的にオーディションがなかったんですよ
あとで、千葉くんに聞いたら…海援隊の千葉くんに聞いたら
『お前さあ(オーディションは)厳しい…
厳しいぞ、きさん!』とか言われて(笑)『照和は』みたいな…
で、海援隊はもう、ちょっと有名だったから(オーディションなしで)
『イイよ!イイよ!』だったらしいんですけど…」と照和デビューの経緯を明かされると
「えっ!?じゃあ、照和が生まれた翌年に行って…?」と萩原さん
「そう、だから、今考えると(オープンの)5ヶ月(後)くらい」とお答えになる甲斐さんに
「ちょうど50年前ってことですもんね?
でも、まあ、たぶん甲斐さんが出るようになってからも
照和の伝説とかも生まれて来る訳じゃないですか」と水を向けられ
甲斐さんは「そう、だから、僕らが高校の時に出た時はまだ、チューリップが福岡にいて
定期的とか決まってないんだけど『出ま~す!』みたいな感じ
だから、ほら、もう東京のレコード会社と折衝してる最中なんですよ
だから(出演する)曜日、決めると出られなくなるからって言って、出たい時だけ出てた」
…と、おっしゃってましたが、おそらくそういう事情で、予め告知できなかったためか?
「客が半分しか入っていないのに」も関わらず
「飛び抜けたパフォーマンスを幸運にも何度か観たことがある」とか
「チューリップが(東京へ行って)ダメだったら
他の誰が行ってもダメだろうと思うくらいに、素晴らしい演奏だった」と絶賛なさってました
そういえば、甲斐バンドが、事務所やレコード会社と契約を済ませたあと
実際にデビューするまでの間に、スタジオで連日、猛練習しているのをご覧になった
妙安寺ファミリーバンドの門田一郎さんが、観客の前で演奏させてやりたいと思われたものの
契約上、福岡では軽々しくステージに立てないということで
ちょうど企画中だった南九州でのコンサートツアーにお誘いになり
「プロデビュー前の初ステージ」を務めることが出来たんですよね?
これは、奥さんが、大森さんや長岡さんだけでなく
当時の甲斐さんが、年長の皆さんに可愛がられていらしたことが窺えると
かなり気に入っているエピソードの1つです(笑)