帰って来た令和のシビレる言葉2 | ボクの奥さん

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ボクの奥さんは、半世紀に渡る甲斐よしひろさんファン。このブログは、主に彼女の『甲斐活』について綴っております。

そもそも、このシビレる言葉シリーズは、甲斐バンドの機関紙BEATNIKの表紙に載っていた
洋楽の和訳歌詞や味わいあるコラムがきっかけだったんですが
その中でも奥さんの一番のお気に入りが1982年3月のVol.4号の表紙の一文…

「何も描かれていない、ただ真白のキャンバスより
猫の足アトか何かで少し汚れてしまったキャンバスの方が
キャンバスの白さをより強烈に感じる事が出来るのではないか
全く音が聞こえない部屋より、たまに遠くで汽笛の音などした方が
より静けさを感じるのではないか~(中略)~

誰も俺を理解してくれない…そう叫ぶ奴がいる
しかし、愛し合っている男と女だって何処か理解し合えない部分があるのだ
人間が人間を、そう簡単に理解してたまるものか
お前の事はよくわかる…そう言いたがる奴ほどキナ臭い」…を彷彿させたのが
哲学者モーリス・メルロ=ポンティの言葉…
「『やわらかい』音とか『つやのない』音とか『かわいた』音といった言い方にも理由がある
色は眼で見る、音は耳で聴くというのは誤りではないか

人は、鳥が飛び立ったばかりの枝にそのしなやかな張りを見る
走り去る車の音に敷石の硬さや凸凹を聴く
その一つ一つが、外に現れた事物の『内的構造』にほかならず
それを支点として諸感覚は交流し合うのだ」…で
人間の知覚というものは、思っているよりも多くの情報を統合した結果であり
意識せず認識されたものが結構あるのかも知れませんね?

続いて、音楽評論家の吉田秀和さんの言葉…
「モーツァルトのクラリネット協奏曲は、響きが『あんまり平静』なので
『明るい長調の光の中で起こる出来事』なのに余計に痛切に響く
きれいな音であればあるほど、それが何か悲しく響くのはどうしたわけだろう

それに共振するのは『自分がどこから来たか?』という問い
一度かぎりで消えゆく音…それは『私』という存在の寄る辺なさとその寂寥に
どこか『安らぎ』をすら伴いつつ人を浸すのか」…は
甲斐さんが、前向きな感情を記された歌詞に、マイナー調のメロディをつけられたり
その逆に、孤独や哀しみを謳いながら、どこか明るさを感じる曲になさったりするのと
何かしら関係があるんじゃないかと…?(笑)

人形浄瑠璃語りの七世竹本住大夫は、文楽のある演目で
人形が柱に頭をぶつけて「アイタッ、アーイタッ」と言う段で
人形遣いの方が太夫を窺い、調子を合わせようとなさった際に
「僕を窺うのではなく、君は君でやったらええ
合わせにいったら、おもしろうなくなります
互いに勝手に語り、勝手に遣って、それでいてピタッと合うようでないといけません」

…と、おっしゃったらしく、その「一体になるより、違いを上手く共振させる」という意味で
甲斐さんの理想とされるコーラスの形…「隣に並んで、息を合わせるんじゃなくて
はるか前方に向かって、それぞれが出した声が
その前方の先で自然に交わる」…と共通しているような気が…?

更に、大夫は…「文楽は演じ物。そして演じ物は虚構
粋に語るところはもっさりと、粋にやっては粋に聞こえへんのです
うそをまことしやかに語るのが『芸』
本当のことを本当にやっていては芸にならんのです
人が演芸場に通うのも、きっとその『うそ』に騙されるため
それに人が笑い涙するのは『私』という存在もまた
それぞれが自分で自分に語る物語でしかないからだろう」…と話されていて

甲斐さんが「ものすごく私的なことを書いたとしたら、それがきちんと普遍性を帯びているかを
表現者は、どこかで客観的に見ることが出来ないといけない
さらけ出すといっても、生のままの感情をそのままぶつけてるんじゃないんです
それに詩人じゃなくて、歌詞を書いている訳ですからね
純粋な詩と、ロックの歌詞では、やっぱり違います」…と、おっしゃっていたのも

「本当のことを本当にやって」おられないからこそ
聴き手が、自由に「自分」を重ね合わせて共感したり
年月を経ても色褪せることなく、心に残って行くんだということを
意識なさっていたからなんじゃないかと…?

では「職業作詞家」でいらした阿久悠さんはというと…
「そこはかとない淋しさ、やるせなさ
何かが欠けているというそんな『飢餓感』が沁み出してきても
人は気を振り絞って、それに蓋をする。変装してるんですよ、みんな
でも、時には少し化粧を落としてみたら…?
歌とは、時代の中で変装している心を探す作業
死角に入っていた心のうめき、寒さにボールをぶつけるために歌を書いてきた」

…と記されていて「実体験」に基づいた歌詞を書かれるのではなく
「時代を嗅ぎ分けて、それに合ったものを投げていく」という
大衆とのキャッチボールを得意としておられた方らしい言葉だと思います

ただ、1997年の著書「書き下ろし歌謡曲」の中で…
「『乾いた必要な言葉』さえあれば、人間なんて結構生きていけると
皆が証明し合っているような時代には馴染めない
もう少し人間がチャーミングに見える言葉が存在していいはずだし、存在していた時代もある

わずかなりともカッコよくありたいという心根が、言葉に艶を与える
現代人は『等身大』をもて囃しながら
実は、自分の大きさを見失っているのではないか」…と、おっしゃっていて
阿久さんの心の底には「勝手にしやがれ」や
「カサブランカ・ダンディー」に登場する主人公のように
カッコをつける「男の痩せ我慢」みたいな美意識がおありだったんじゃないかと…?

また、漫画家の瀧波ユカリさんも…
「『発言するなら。この空気感でお願いします』といった同調圧力が、とにかく嫌い
祝福とお悔やみ以外で、それをやりたくない
言葉を制服みたいにしたくない
言葉が私だけのものでなく、共通の語彙からなるのは
ジャケットやスカートやTシャツが、所詮は時代の制服なのと同じ
むしろ、それをどう着こなし、どう着崩すかに『自由』はかかっている」と呟かれていて
皆に与えられたのと同じ言語で、いかに自分らしさを表現するかを追求なさっています

一方で、詩人の田村隆一さんは…「自分の言葉に違和感を抱いている君は見込みがある
言葉に疑いを抱かないような人間の書く文章なんて碌なもんじゃない
言葉で輪郭をなぞらないと、それが存在することすらわからないのだけれど
言葉にしてしまうと、何かを逸らしてしまった気がする

何かが零れ落ちたような、あるいは逆に何か余計なものを抱え込んだような…いつも過少か過剰
そんな不均衡というか、ちぐはぐが、言葉と感情の間にはある」…と話されていて
感情を的確に言い表す言葉を探し、推敲を重ねておられる姿が目に浮かびました

そういえば、甲斐さんは、江國香織さんの書かれた歌詞には
「無駄なものも足りないものもない」と絶賛なさってましたよね?

ともあれ、哲学研究者の古田徹也さんは…
「我々は、迷い、ためらうことを可能にする言語を『贈られている』のである
ある言葉に触れた時の、しっくり来ない、どうも違うといった違和感は
『常套句の催眠術』をかわし、覚醒へと向かう起点であり、むしろ言葉の豊饒さの賜物なのだ

『リツイート』や『シェア』といった
他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復には
言葉の勢いと熱量が明澄な意識を押しのける、そんな危うさがある」
…と、SNS時代における言語の在り方に警鐘を鳴らされ

かのフランスの思想家パスカルは…「懐疑論について疑いながら話す人は少ない
『あらゆるものは疑いうる』『絶対的な真理などというものは存在しない』と
確信を持って主張することの矛盾」を指摘していて
「いつも言葉は気ままなもの 僕を殺すことも出来る」ということを念頭に置いて
発信する前には「ちょっと待てよ」と読み返すようにしなければ…と言い聞かせた次第です(苦笑)