新潟日報が掲載している「あちこちのすずさん」に、私の母の投稿を小さな欄ですが載せていただきました。
終戦間際、長岡の空襲の思い出です。
以下は母が綴った原文です。
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昭和19年春、高田高女を卒業した私は、従軍看護婦になりたいと長岡の日本赤十字社新潟支部救護看護婦養成部(現在の長岡赤十字看護専門学校)へ入学した。
県内から30名の乙女が集まり、都会的な新潟出身の子から私のような田舎丸出しの子までさまざま。寮で生活し、戦時であったが、それぞれ親から送られてくる煎り豆や干し柿を分け合って楽しく過ごしていた。
昭和20年。夏休みで学生の半分が帰省していた8月1日日曜日午後9時過ぎ、いきなり空襲が始まった。信濃川の土手に逃げなさいという声が聞こえて、みな必死に駆けた。距離は1キロ以上あっただろうか。
ようやくたどり着いた土手では、一人二人と顔が揃ってきたが三人程足りない。どうしたかと心配する私たちの上にべたべたと生暖かい大粒の雨が降ってきた。
敵機から焼夷弾が落とされるたびに、風の向きで落ちる場所を測って、皆であっちへ行ったりこっちへ行ったりした。敵機が去ったあとも一睡もできないまま夜明けを迎えた。
朝になり日赤病院を見に行くと、コンクリートの建物は残っていたが、中は焼損していた。行方不明だった三人がひょっこりと顔を出し、みな手を取り合って泣いた。三人は大人の人たちと病院の地下に避難したという。少し熱くなったがビクともしなかったと勇ましい事を言っていた。
長岡市の中心にある平潟神社に逃げた人たちは大勢死んだとのちに聞いた。私たちの逃げた信濃川土手でも3人ほど直撃を受けて亡くなったという。
19歳の海兵隊さんが左手に直撃を受け切断しなくては命が危ないということになり、日越小学校の教室がにわか手術室となった。手術に必要な器具は病院の焼け跡から拾ってきた。どういう経緯か私が右足を押さえることになり、必死に力を入れた。少年はぐっと歯を食いしばり耐えていた。切断手術は無事に終わった。左手は校庭の桜の木の根元に埋められたという。その少年はその後長く生きられたと聞いている。
空襲の三日後、柿崎町米山寺(現在の上越市柿崎区)から、父が野菜を担いでやってきた。長岡駅で汽車を降りたというから鉄路は無事だったのだろう。父は私の顔を見た途端、お前はいつもちょろちょろして素早いから生きていると思っていたと言って笑った。わたしも同級生も笑った。
間もなく私たちは終戦を迎えた。