父が、森進一のLPレコードを買ってきたのは、昭和43年のことだった。
昭和40年代。高度成長の真っただ中、裏日本、新潟の片田舎高田でも、日々豊かになっていく実感が人々に広がっていた。それは父たち大人だけではなく、私たちガキも皮膚呼吸のように確かに感じていたと思う。自転車がほしいというと、一年は待たされたが、兄のお下がりではなく、ちゃんと新車を買ってもらえた。
そのころ、それまでの蓄音機に取って代わってコンポーネントステレオという名の大型のステレオが各家庭に普及し始めていた。ひとつ50センチ角ほどのスピーカーふたつと、プレーヤー・アンプ・チューナーが組み込まれた本体からなっていて、横に並べると幅およそ一間。たいがい座敷に鎮座し、どう見てもステレオが部屋の主役となっていた。
貧しい教員の家であった我が家も、ボーナスが出た後だったのか、ちょうど今頃のように暑い季節、父が突然ステレオを購入し、横瀬オーディオの社長さんがセットしていった。
それから父はちょくちょくLPレコードを買ってきた。その多くは、軍歌だった。
父は、昭和19年、満州の開拓村にあった小さな国民学校の教師に赴任中招集され、翌年敗戦。シベリアで2年余り抑留された後、帰国した。自分の教え子たちが満州国消滅の混乱の中、中国人によって全員殺されたことを知ったのは、朝鮮戦争後のことだが、それは今は語らない。父の青春の歌は、まさしく軍歌だけだった、そのことを言いたいのである。
少年のころ夢中になって覚えたであろう軍歌の数々を、平和のさなかの日本で、かれは聴き続けた。狭い家であったから、私の耳にも飛び込んできたのは言うまでもない。いつの間にか覚えてしまい、今でも「肉弾三勇士」「加藤隼戦闘隊」「月月火水木金金」など諳んじることができる。
そんな父が、ある夜、一枚のレコードを買ってきて針を下した。それは軍歌ではなかった。ジャケットには、紫の髪の女のイラストが描かれていた。
ギター一本が静かに爪弾かれ、三拍子のリズムに乗って、やがてうめき声とも、泣き声ともつかない、不思議な歌声が聞こえてきた。男か女か分からない声。過剰なビブラートが、船酔いのように眩暈を起こさせる声。生理的な嫌悪感と、わずかの恍惚感。
曲の名は、「影を慕いて」。
歌手は、森進一だった。
それからも父は時折「影を慕いて」を聴いた。今思い返せば、酔って遅めに帰宅した時にかぎって聴きいっていた、そんな気がする。
今の私よりも若い、40代の父は、ひとりこの歌に何を思い、何を聴いたのだろうか。
7月2日、長嶺ヤス子が「影を慕いて」を踊る。彼女には全く関係ないことなのだが、ある種の感慨を持って、演出をする私がいる。
音楽は、時折忘れていたことを思い出させる。
音楽は、いいものだが、ちょっと味付けが濃すぎると、舌に残る。
その味を噛みしめるのが、人生なのかもしれない。