冬の終わりに、夏の終わりの祭りを思い出している。
富山県八尾「おわら風の盆」。毎年9月1日から3日間、越中おわら節という哀調を帯びた旋律にまちの人々が静かに踊る。
残暑の熱の漂う街に、夏の終わりの寂しさが満ちて、その胸締めつける想いを人々は、静かな手振りで一振り二振り、裁ち切るように踊って往く。
瞼を閉じれば、次第に近づき、次第に遠ざかる胡弓、三味の音、太鼓の響き、踊るものの足音、衣擦れ、息遣いが、踊りを見つめる旅人の肌を、衣を透かして触っていくかのようだ。
ざわっと触れていくついでに、こころに隠した感情も掴み出されて、忘れていた思い、忘れようとしたひとびとが、夏の終わりの亡霊のように蘇り、踊るその群集の中からにっこりとほほ笑み返す。
旅人は、身動きもせず、見つめ返す外は無い。
「おわら風の盆」が全国に知られるようになったきっかけは、高橋治の小説『風の盆恋歌』(昭和60年刊)だという。また石川さゆりの同タイトルの歌が平成元年に発表されることで、「風の盆」は一躍ブームとなったという。
いまは3日間で30万人とも50万人ともいわれる観光客が押し寄せるようになり、かつての鄙びた祀りを知っている古老たちは、もはや違う祭りになってしまったと嘆いているらしい。
だが観光客のマナーは概して良い。静かな舞を静かに見つめている、そういう人々が多い。単に観光名物を見に来ているというのではなく、それぞれの思いを胸に、ある種祷りをささげにやってきている、そんな気さえする静けさが広がる。
鎮魂という言葉が最もふさわしい表現だろうか。
観光は、必ずしも華やかでなくてよい、賑やかでなくてもよい。旅人のこころの琴線に触れるささやかな何かがあればそれだけで、訪ねた甲斐があるというものだ。
その思いを忘れられずに、旅人は再びその地を訪れる。
上越にもそうした遺産がきっとある。その遺産を見つめ直したい、いま私はそう思っている。