謙信公の春日山がはげ山になりつつある、なぜ? でも良いことなんです。 | 地方都市は死なず! 滝沢いっせい ブログ爽創通信  *09016693890*kpissey@rf6.so-net.ne.jp*

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上越市議会議員滝沢一成のブログです! 日々感じたこと、考えたことを、できるだけ素直に書いてゆきます。
滝沢一成のテーマは「雪」「老い」「貧困」、これらを追及します。

春日山が変わりつつあることに、皆さんはお気づきだろうか。

謙信公大通りから見ると一目瞭然、白い雪が被さった地肌の部分がずいぶん増えた。「あれ、はげ山になった?」と思えるくらいである。


実は、昨年秋ごろから、杉などの伐採が進められているのだ。なぜ伐採するか、それはかつての春日山の復元のためである。市としては、現在残っているもっとも古い写真の姿、大正期の春日山の姿にまずは戻したいと考えている。


子供のころからこんもりと杉に覆われた春日山を見慣れてきた。春日山とはそういう山だと思っていた。時折春日山神社を訪れるとき、そこに生える杉の大木にどこか厳かな思いを抱いた。謙信公が眠る山として、このようにうっそうとした森が相応しいと、子供心にも思ったものだ。


しかしその姿は元々のものではなかった。春日山は、土城(つちじろ)だったのである。

城という字を分解すれば、「土で成る」。元来山城とは裸山であったと推測している歴史家も多い。春日山も例外ではなく、全山木々は植わっていなかったらしい。しかも草も生えていなかった。なぜか。土塁を塩で補強していたというのだ。日本海で無尽蔵に採れる塩と現地の土を混ぜ、強くたたきながら分厚く塗っていったという。一説によると、石垣の無い高田城も同様に塩で土塁を固めていたらしい。土と塩の混合物は、まるで煉瓦のように硬くなり、20年30年もつと、ある研究者は言う。


木が無い、地肌がむき出しの春日山。ちょっと想像しがたい。しかしそれが本来の春日山の姿であるなら、私は、この復元に賛成したい。

やるなら徹底的にやろう。私有地の地権者の皆さんに納得していただけるものなら、春日山神社の北側、元の武家屋敷跡の伐採も進められたらと思う。そして不法に立てられた謙信公像の移設、本来の道の復元と便宜上新開された砂利道等の閉鎖を実現する。できれば土塁とともに山を覆っていた柵も建設してはどうだろう。伐採した杉の二次利用に繋がる可能性もある。


全国で、戦国時代の土城を復元した例はあるのだろうか。私は寡聞にして存じ上げない。もし復元が成ったら、大きな話題となるだろう。

本物が見られるという評判が広がれば「観光」にも結び付くだろう。

これからの推移を見つめていきたい。