昨日は、春の陽気に誘われて散歩に出かけました。ドアーからドアーへの時間は1時間10分。こじんまりとしたパン屋さんの美味しいパンも購入。帰宅後の午睡もタップリ。満足満足!!
ベニバナシャリンバイ
高校生の頃、北九州市に住んでおりました。熊本の水俣病のことは、私たちの間でも大問題として脳裏に焼き付いていたものです。風評被害もあったように思います。
水俣病確認70年究明遅れ 被害拡大
1956年5月の公式確認から70年を迎える水俣病。今も患者は苦しみ、患者と認められなかった人たちによる法定闘争も絶えない。
水俣病の認定患者は熊本、鹿児島両県で計2284人に上る。
患者認定を求める人は今も絶えず、多くが国やチッソ相手の法廷闘争と並行して申請してきた。だが、審査のハードルは高い。2025年度までの10年間で計2299件の申請に対し、認定は4人に留まる。
水俣病は、猛毒のメチル水銀で汚染された魚介類を食べた人の神経系が侵される中毒性の疾患。手足の震えや体のふらつきなどが典型的な症状で、矢代海に面した熊本県水俣市を中心に広がった。
1956年4月、重い症状を抱えた姉妹ら4人が新日本窒素肥料(後のチッソ)の水俣工場附属病院に入院した。
院長が5月1日、「原因不明の脳症状を呈する患者4人が入院」と水俣保健所に報告し、後にこれが水俣病の公式確認とされた。
原因は、チッソの工場が化学製品の製造過程で出たメチル水銀を矢代海に排出していたことだった。チッソは動物実験で中毒を確認していたが、実験結果を隠蔽。行政も、積極的な原因究明や水域の利用制限などを行わなかった。地元経済への影響を懸念したとされている。
68年9月、政府は水俣病について、チッソの工場廃水が原因の公害病とようやく認定した。
この間の65年5月には、新潟県で別の原因企業による新潟水俣病も確認。対応の遅れが病気の広がりを許したとされる。
水俣病患者の救済の歴史は、チッソや行政による補償・救済と、それに不満を持つ人たちによる法廷闘争の繰り返しだった。
最初の補償は、原因が確定する前の1959年にチッソと被害者団体が締結した「見舞金契約」。死者に30万円、成人は年金10万円など極めて低額だった上、工場廃水が原因と確定しても新たな補償を求めないとの条件も盛り込まれた。病魔や生活苦にあえぐ人たちは涙を呑んで受け入れた。
68年、工場廃水に起因する公害病と正式に認められたことを受け、一部の被害者はチッソを相手に損害賠償を求めて提訴(第1次訴訟)した。
熊本地裁は73年、1人1600万~1800万円の慰謝料などの支払いをチッソに命じた。見舞金契約は公序良俗に反するとして無効となった。
判決を受け、チッソと被害者間で新たな補償協定が成立。訴訟に参加しなかった人も含めて判決に沿った補償を行うこととなった。
多数の被害者が迅速に補償を受けられるよう、74年には、自治体が患者認定した人にチッソが保証することを定めた公害健康被害補償法が施行された。補償の仕組みにようやく国が加わった形。
ただ、申請が殺到したことで、環境庁は77年、「複数の症状の組み合わせが原則」とする患者の認定基準(77年判決条件)を設けた。その結果、軽症者の申請棄却が相次いだ。
「未認定患者」は80年頃から、国と熊本県の責任を問う国家賠償請求訴訟を各地で提起する。裁判の模様が大きく報道されるなどして社会問題化したため、当時の村山富市政権は95年、一定の感覚障害がある人などを対象に、一時金260万円や医療費などを支給する救済策を決定。約1500人が受け入れた。後に1回目の政治決着と呼ばれる。
一方、差別から逃れるなどして関西に移り住んだ未認定患者らは、政治決着に応じず訴訟を継続した。最高裁まで争い、2004年、国と県の責任を認める判決が出た。判決では、複数の症状がなくても患者と認めるなど77年判断条件より緩い判断基準を示した。
最高裁判決を受け、救済を求める人が再び急増した。09年、議員立法で水俣病被害者救済特別措置法(救済法)が制定され、2回目の政治決着が図られる。救済する症状をさらに広げるなどし、約3万6000人が一時金210万円を受け取るなどした。
それでも救済措置から漏れたり、応じなかったりした人たちは残った。12年7月の救済法の申請期限が過ぎてから水俣病の症状がはっきりした人もいた。そうした人たちが訴訟を起こし、今も全国で計約1500人(新潟水俣病関連を除く)が係争中。
(2026・4・30 讀賣新聞 から)
水俣病祈りの言葉「怒り」越え「連帯」訴え
5月1日に熊本県水俣市で営まれた犠牲者慰霊式。
「水俣病の真の解決は全ての人が起きた出来事に向かい合い、心から反省して教訓につなげることができた時だ」。
患者や遺族を代表して「祈りの言葉」を述べた認定患者の緒方正実さん(68)は参列者にこう呼びかけ、連帯して問題解決を図り、次世代に伝えていく決意をしめした。
熊本県芦北町女島の網元一家に生まれた。 約40人の網子を束ねていた祖父・福松さんは1959年9月、突如もがき苦しみ、2か月後に亡くなった。
地域では最初の水俣病の患者。当時は原因不明で、「奇病を出した家」とうわさされた。
祖母や母にも次々と症状が表れ、自身も耳鳴りや手足のしびれに悩まされたが、偏見や差別を恐れて言い出せなかった。
約10年かけて認定を勝ち取った。「怒りや不満を並べれば言い尽くせない人生。それを乗り越えてここに立っている」。
2007年9月、水俣市立水俣病資料館で語り部を始めた。過ちが世界で起きないようにするための役目を負っているとの信念で続けてきた。
訴訟 今も1500人
「私の体を治してほしい」。埼玉県新座市の吉田きよ子さん(78)は訴える。
矢代海を望む鹿児島県長島町で4人きょうだいの末っ子に生まれた。毎日の食卓には魚が並んだ。40歳を迎えようとする1980年代半ばから、足がしびれ、体がふらつくようになった。今は歩くのもままならず、横になることが多い。
2014年、水俣病に関する新聞記事を見たのを機に、自身の病を疑うようになった。
だが、救済措置はすでに申請期限が過ぎていたため、14年、国などに損害賠償を求める集団訴訟の原告第1陣として東京地裁に提訴した。
(2026・5・2 讀賣新聞から)
柑橘の花
『苦海浄土 わが水俣病』 石牟礼道子 著
水俣病の凄惨な実態と患者の魂の叫びを描いた文学的ドキュメンタリー。
『水俣病』 原田正純 著 岩波新書
長年水俣病を診療してきた医師による、実態を分かりやすく解説。
『チッソは私であった 水俣病の思想』
緒方正人 著 (緒方正実さんの叔父)
水俣病患者自身が、被害と加害の構造を内側から問い直す思想書。
※※※※※※※
『水俣病闘争史』 米本浩二 著
(米本浩二さん=石牟礼道子資料保存会研究員)
長年にわたる患者の闘いと、補償問題の経緯を丹念に追った記録。
『証言 水俣病』 栗原 彬 編著
(栗原彬さん=社会学者・立教大学名誉教授)
被害者、支援者らの生の声をまとめた記録。
『水俣病の真実』 矢吹紀人(ルポライター) 著
1万人の患者を診察した医師・藤野糺の闘いの記。
※※※※※※※
患者さんが教えてくれた 水俣病と原田正純先生』 外尾 誠(ほかお まこと/ 作家) 著
子ども向けに、原田医師の活動を通して水俣病を伝える物語。
『こどもと学ぶ水俣病』水俣病資料館 編
水俣病資料館がまとめた学習用書籍。
讀賣新聞編集手帳から(2026年5月3日)
水俣病の苦しみを書き続けた作家・石牟礼道子さん
<祈るべき天とおもえど天の病む>
祈りを捧げたくても、こう残酷な世界を与える天ならば、うらみたくもなろう。
水俣病の70年は、住民が国の不実に踏みにじられる歴史に見えて仕方ない。
熊本の工場から不知火海に流れ出た猛毒の汚染水は、病人が相次いでも10年以上止まることなく被害を広げた。
患者らに対する国の救済策は後手に回り、法廷闘争が今に至る。
司法救済を求める被害者はかつて、黒地に「怨」と白く染めた旗を手に裁判所へ集まった。怨念、怨言(えんげん)、怨嗟(えんさ)…
「うらみ」の言に用いられる。
「怨旗」の意図がそうでなかったことを、考案者である石牟礼さんの随筆に教わった。怨の字源は、心に憂えることがあり、祈るような心情という。
<私は、人間だけが作り得た美徳が、かなたにあると信じる>
(『花びら供養』平凡社)。
黒い旗の字は、希望の火は消えていないと信じる祈りだったのだろう。
救済を求め、今も裁判を闘う原告は1500人に上る。「天」の字が、「人」が両手を広げて空に祈るように見える。
暖かい日差しのなか みなさま どうぞ素敵なゴールデンウィークをお過ごしくださいね。
家族達、み~んな楽しんでるかな~ ![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
追記
先日行きました「里山ガーデン」のあちこちで見かけました。⇩⇩⇩
「シラー・カンパニュラータ」別名
「ツリガネニンジン」
以前、我が家近くの雑草地でも見かけたのですが、今は家が建ち無くなってしまいました。引き抜いて持ち帰ってくればよかったのに!とちょっぴり残念に思った今回の出会いです。
(人''▽`)ありがとう☆ございました
















































































































































