木星[ジュピター]が人間のようだったら語れるのに、
それがメタンとアンモニアから成る
巨大な回転する球だとなると何も言えなくなるようなら、
詩人とはいったい何なのだろう。
(リチャード・フィリップス・ファインマン「ファインマン物理学講義」)


冥王星が惑星でなくなってしまいましたね。


私の感想を言うならば、
冥王星を惑星からはずすというのは、科学の見地からは正しい判断だと思います。


でも、冥王星が惑星でなくなるというのは、やっぱり少し残念というか、
ロマンが一欠けしたような気分になります。


どの星を惑星にするかなんて人間が決めたんですけどね。
そんなこと分かってたんですけどね。


そういう感覚に基づいた芸術って何なのだろうね。


(fractuationはカタカナで書くとかっこ悪い…)

小説を書いてみたい。
と、思うことがある。


ま、書いてないんですけど。


ところで、小説とかゲーム(主にRPG)とかについて、
溶けない疑問がある。


なんか、こう、そこで囚われてしまう。


固まって溶けない、そんな私の疑問。
(ほんと、こんなブログやってる副作用みたいなものです。)


小説って主人公がいますよね。
魔王を倒す勇者だったり、ひょんなことから不思議な事件に巻き込まれる少年だったり、
その世界において、明らかに特殊な役割を演じる人物が。


そういう人がいるのは構わない。ただ、


作家が創造したその世界に、
たくさんの人がいて、
いろんなものがあって、
その中で、明らかに特殊な位置にいるその一人ないしその周辺に、
フォーカスされてる。


確率論という言い方は適切でない気はするけど、
なんか不思議だ。
不思議で仕方ない。


たとえば、この世界において主人公は私だ。
この世界を眺める視点をもっている、という点において。
(あなたの世界において、主人公はあなただ。)
(そして、私のこのブログは、あなたの世界の中であなたの周辺の設定をしている)


この世界には、悪魔がいて、
勇敢な誰かが、僕らの知らないところで、
気付かぬうちに、大冒険をしていて、
小説の中の多くの人のように、そういうこととは無関係に生きている。


こんな世界のなかで、そういう勇敢な誰かに
フォーカスされる恣意性は何だろうか?
(このブログを読んでるあなたが、そういう特殊なことをやっているとかだと、僕は悩まなくて済むのかもしれません。)
(こっそりとでいいので、ご一報を。)


あと、もう一個。


小説を読んでる我々は何者なのでしょうか?

小説の中に創造された世界の中の人物にとって、
我々は何か意味を持っているのでしょうか?


遠くから俯瞰しているような、
人物の心理に重なるような、
自分の意思でその世界を眺めているような、
作家の提供するアングルでしか覗けないような、
そこから何を感じるのも自由なような。


何かコメントをいただけると嬉しいです。

満点の夕空へ 光を放つ メッセージ


こういう場合、想いは夜空を介して人間に届く


では、
遠くに在るあの星にメッセージを受け取ってくれる実在はいるだろうか。

フェルミのパラドックスですね。


しかし、ここでは宇宙人が存在するか、という問いはひとまず置くことにして
実在するとしたら、
どんな姿だろうか
ということを考えてみよう。


私の答えは、あまり深いことを考えなければ、おそらく最もロマンチックなものであろう。
すなわち、最もありそうなのは我々のこの地球と同じような存在がいる、ということだ。


なぜか。


様々な物理法則に彩られた平行世界を考えよう。


光の速度が c=299792458m/s で、重力が距離の2乗に反比例し、電子やクォークでできいて、・・・・
な世界に我々は存在している。


宇宙のほかの可能性を考えてみよう。

光の速度が c=777m/s だったり、
光の速度が c=299792457m/s だったり、
重力が距離の4乗に反比例したり、
電子でもクォークでもない何かとてもヘンなものでできてたり、
金属を螺旋状に加工したものは伸ばせば伸ばすほど戻る力が弱くなったり、・・・

とにかく、現在の我々がいる宇宙とは物理法則が違っていたり、物理定数がほんの少し違っているだけだったり、
そんなたくさんの宇宙のうちの、この宇宙に我々はいるのだ。


では、この宇宙に目を向けてみよう。

宇宙人が存在するかというフェルミのパラドクスに対する答えは様々だが
およそ一致しているのは、生命はそう簡単に誕生しないということだ。


しかしこの宇宙には、DNAやタンパク質でできた生物が生まれた。


ひとつ言えるのは、この宇宙は、DNAやタンパク質でできた我々のような生物を許容するような宇宙だったということだ。

恐らくとしかいえないが、そしてこれは最も重要な仮定なのだが、
この宇宙の物理法則が少しでも違ったら、DNAやタンパク質のこのような生物は許容されなかっただろう。


以上のことをまとめると。
あるひとつの宇宙において、許容される生命の様式は決して多くない。
(少なくとも我々の宇宙では、シリコンや鉄でできた生命体は今のところ知られていない。進化の段階にばらつきはあるが、おおよそ同じ仕組みでできており、全く他の様式でできた生物は知らない。)


今、生命の様式が取り敢えず2種類あるとしよう。
A・・・DNAやタンパク質でできた、ちょうど我々のような様式の生命
B・・・シリコンや鉄でできた様式の生命


この宇宙を含め、平行世界の中には、Aという様式の生命を許容する宇宙がいくつか在るとしよう。
もちろん、Bという様式の生命を許容する宇宙も同じくらいいくつか在るだろう。


後は確率論だ。宇宙は3つに分けられる。
Aは許容するが、Bは許容しない宇宙・・・Ⅰ
Bは許容するが、Aは許容しない宇宙・・・Ⅱ
AもBもともに許容する宇宙・・・・・・・Ⅲ

我々のこの宇宙はⅠまたはⅢである。


ここで、先ほど述べたように、あるひとつの宇宙が複数の様式の生命を許容する可能性は低い。
であるから、ⅠかⅢかと問われれば、この宇宙はⅠである可能性が高い。


Bの宇宙は他にもいろいろなレベルで様々な可能性をとるわけで、
例えば、決定的に我々の元素と違ったモノでできている生命だとしてみたり、
DNAやタンパク質でできているが、どんな生物も球状だったり、・・・


そうすると、我々の宇宙が、その様々な可能性のうちの複数を同時に許容する可能性は低いので、
もし、この宇宙の地球以外に生物がいるとしたら、この地球上と同じような生物である可能性が高い。
(もちろん、厳密に我々と同じ生物である可能性自体は低いが、それでも確率的に最大値をとるのは我々と全く同じところであるし、我々に良く似た生物がその周りで他に対して優位に高確率である。)


宇宙人がいる
といっても相手はエイリアンみたいな奴かもしれないと思うとありがたくない
しかし
自分達の世界の写し、まるで鏡の国が夜空の彼方にあると想いを馳せるのは悪くないかもしれない


ただ、アリスの訪れた鏡の国では、目的地に近づこうとすると離れてしまってたどり着けないんだっけね。

世界っていうコトバがある


ほんの少し前まで 私は

世界っていうのはケータイの

電波が届く場所なんだって

漠然と思っていた

(長峰ミカコ「ほしのこえ」)


この世界には、光速(300,000,000m/s)より速いものはない。

“もの”というのは物体に限らない。より広い言い方をすると“情報”である。

もちろん、質量のある物質は光速以下で移動する。

ケータイの電波(電磁波)も光速で飛び交う。

重力の及ぶ範囲というのも、現実には光の速さで広がっていく(らしいです)。


つまり、

(宇宙が誕生してからの時間)×(光の速さ)=(距離)

この距離以上の空間に何かが存在していたとしても、我々はお互いに決して干渉しない。

この絶対的な境界には名前がついている。


「粒子の地平」


と。


(*)「事象の地平」=ブラックホールの半径のこと。

光(を含めてすべて)が中から出てくることのできなくなる境界のこと。

相対的な真理。

科学というのは真理のひとつだ。


確かにそうかもしれない。


しかし私は、科学というのは特別な真理ではないかと考えている。


今日はそんな思考の一端について。


科学的な真理を「ニュートン真理」「フック真理」とに分けてみよう。

これらの語は私の造語である。

以下、これらの真理について述べよう。


アイザック=ニュートンとロバート=フックはともに同時代の科学者である。

ニュートンは、万有引力の法則を発見した人。

フックは、フックの法則を発見した人。

(もちろん。他にも功績はありますよ。ニュートンなら微積分とか光学とか。フックなら“cell”の発見とか。)


万有引力の法則 U = -GM/R (比例定数*質量/距離) ←ポテンシャルでかいてます。

フックの法則 F = kx (比例定数*距離)


こんな風に見ると似てる。でも、違う。

重力は、厳密に距離に反比例する。


ばねの力は、決して比例ではない。

ばねについて決まっているのは、「伸ばせば伸ばすほど大きな力がはたらく」。これだけ。

フックの法則は、一次近似だから比例する。

(分かりやすく言うと。なんか右肩上がりのよく分からない曲線があって、よく分からないからそれに接線(比例)をひいて、その接線で代用しよう。ということ。)

螺旋の形状が、伸ばしに比例した力を生むという法則ではない。


つまり、万有引力の法則はフックの法則とは格が違う。


ニュートン真理というのは、厳密にその通りな真理。

(或いは、その通りかその通りでないかの2通りしかない真理)

・万有引力の法則や相対性理論、量子力学、光量子仮説、(超ヒモ理論も?)など。

数学的でミクロなものごとに関するもの。


フック真理というのは、(本当は違うが)近似することで定式化した真理。

・熱伝道や流体力学あとは気象とか地震とか。

マクロなものごとを簡略化して見ていくためのもの。


というような分類ができるのではないかと。


もし、科学をニュートン真理的なものと捉えるなら、

科学は特別な(絶対的な)真理に傾くであろ。

もし、科学をフック真理的なものと捉えるなら、

科学は相対的な真理に傾くであろう。


では、科学をどう捉えるべきかという話になると難しい。

両者の境界は、非常に曖昧だ。いや、こうして分けようとすることが無意味なのかもしれない。


ニュートン真理的なミクロな真実の総体としてのマクロな真実があると考えれば、

フック真理はある意味でニュートン真理に含まれる。

ニュートン真理とて、それを保証するデータはフック的な方法(ある種の統計的判断)に頼らざるを得ない。

ニュートン力学から量子力学へと移行したように、より根本の原理に落とした場合に以前の原理をどう扱うかということも問題であろう。

そもそも、そうした根本にたどり着けるのかも不明だ。

さらに、それが根本であるという証明は成立するだろうか。


こうして、科学という真理は天秤の上でゆらゆらと揺れている。

科学という真理の重みをはかりあぐねている。

白やぎさんからお手紙着いた
黒やぎさんたら読まずに食べた
仕方がないので お手紙書いた
さっきの手紙のご用事なあに


黒やぎさんからお手紙着いた
白やぎさんたら読まずに食べた
仕方がないので お手紙書いた
さっきの手紙のご用事なあに


・・・。


白やぎさんからお手紙が着きました。
黒やぎさんは今度は食べることはありませんでした。
お手紙を読んだ黒やぎさんは
白やぎさんにお手紙を書きました。
「さっきの手紙のご用事なあに」
と。


黒やぎさんからお手紙が着きました。
白やぎさんは今度は食べることはありませんでした。
お手紙を読んだ黒やぎさんは
白やぎさんにお手紙を書きました。
「さっきの手紙のご用事なあに」
と。


るーぷるーぷ。無限ループ。


白やぎさんも黒やぎさんも
お手紙を食べてしまったのは
最初の一通だけだったのかもしれません。

愛された日々は無敵の砦

住み慣れた胸の温もり 振り向けば帰りたくなるけど


私は今日あなたという鳥籠から飛びたつよ

大空に舞え 小さな鳥よ

二人の日々が点になるまで 高く… 高く…

(ナナムジカ「鳥の歌」)


(ナナムジカのアルバム「ユバナ」。是非聴きましょう。「鳥の歌」必修。)


(以下、のろけ話というバイアスを捨ててお楽しみください。結構まじめです。)


あなたの鳥籠の中にいる私の鳥籠の中にいるあなた。


こんな状況。循環論の香り漂う面白い状況。


P ⊃ Q かつ P ⊂ Q な状況。(“A⊂B” =「AはBに含まれる」)

これは、論理的に存在しない。


そこで、恣意的に拡張。

(物質的な鳥籠から、形而上の鳥籠へ。)


P ⊆ Q かつ P ⊇ Q な状況。

この場合、ある状態が唯一存在し得る。


すなわち。 P=Q。


お互い自分の入っている鳥籠の主人を自分の籠に入れているようでありながら、

一方的に去ることができるのですね。


傷が治ったら 飛び立ちなさいと

鳥カゴの鍵をそっと あなたは開いた

ずっとこの部屋で 歌わせたいなら

この羽根切ってくれたら いいのに

(遊佐未森「小鳥」)

写真機はバスの椅子で眠くなる

口紅は窓の外を見ている


市場で買ったモスリンのドレス

素肌が目覚めてゆく


華奢な退屈

風にちぎれた

Is it here ? …… or there ? ……

(遊佐未森「suhada」)


遊佐未森さんの野外ライブに行ってきました。(数日前ですが。)


初めて行ったんですよ。ライブに。

最初、ステージに登場するまでどきどきしました。

行ってよかったです。


「suhada」はそのライブで歌ったうちの一曲。


(NHK教育「みんなのうた」で「クロ」が再放送されることも決まったそうなので、見かけたらよろしく。)


いつか書こうと思っていたのですが、感性が素敵な人ってあこがれます。


バスは地球の形

僕に刻んで揺れるよ

(遊佐未森「山行きバス[道草ノススメ]」)


とか。



ところで、歌詞の引用をしていて、いつも思うのですが。

歌詞の引用もとは、歌手をあてるべきか、作詞者をあてるべきか。


詩としてではなく、歌として気に入ったのであるから、歌手を。

しかし、ここに音声情報は記録できないのであるから、作詞者を。


迷うのですが。

私のブログでは、歌手に統一して掲載しております。

私自身が、これらを楽しむときには、歌の形になっているからです。


もし、機会があれば、是非入手して聞いてみて欲しいという願いも込めつつ。

運を天に任せましょう。

star crossed(星回りが悪い)。


星占いってどうよ。

だって、「占い」(或いは「予言」)って「自由意志」と衝突するじゃないですか。

今日はそんなお話。


例えば、占いの結果「今日は素敵な出会いがあります」とかの時に、

外出もせず、携帯の電源を切り、パソコンにもつながず。

そして、何も起こらなかった。みたいな。

(逆に、「交通事故に遭う」って言われたから外出しないとか。)


つまりね。

「Pが起こる」という予言を聞かされる

「Pが起こらないよう」に行動して、回避する。

結果「Pは起こらない」。

で、このとき占いは当たったのだろうか。


ちなみに、余談ですが。

「~すれば、Aが起こる」というタイプと「~しなければ、Aが起こる」というタイプに分けることもできます。

前者はあまり問題ないのですが、後者の場合ちょっと厄介です。

「神を崇める塔を建てなければ、洪水でこの町は滅ぶであろう」とか。

何にもしなければ、洪水でぎゃー。(予言は的中)

苦労して塔を建てたら、何も。 (で、結局どうだったのよ?)

(カサンドラのジレンマ)


予言は自由意志を拘束してしまわないと不可能で。

予言されたからといって、僕らは自由に行動できるわけで。

いや、実はその自由意志すらも幻想なのか?


という問題に行き着く気がする。


で、仕方ないから、占いは確率に置き換わる。傾向とか。

そうなりやすい。

当然、それを知った上で行動すると発生確率が変化する。

と。

でも、星占いや予言を確率と呼んでしまったら、なんか違う気がしませんか。


そこで、生物(取り敢えず人間)には自由意志を認める。

自由意志を拘束せずに、予言を行う。

こんなことを考えてみました。


(以上まで、各種占いや予言をラフに使ってきましたが)

そこでまず、占星術を考えて見ましょう。

実は、占星術にはそういうことが可能なのではないか、と。


占っている対象が人間であると考えると、自由意志は消滅する。

(私ナド理系学生ナ者デ)初期条件という考え方をしてしまう。

つまり、生まれたときから君の行動は全て決まっている。

故に、君の或いは君の周りに起こることは予測できる。

そうした方法の1つである、占星術によると、「今日はPが起こる」と。


占星術ですから、あくまで分析の対象は天球です。

占星術と不可分なのが天文学の発展です。(だよね?)

天文学によって(或いは、ニュートン力学の発展によって)

星空の動き(天体の動き)は予測可能なものとなりました。

つまり、天体(非生物)の動きは予測できる。


つまり、あなたが生まれた瞬間には、

あなたの人生における時々刻々の天体の位置が決まっている。


あとは、

その刻々の天体の位置があなたの人生や行動に影響を与える

ということを契約する術としての占星術が存在すればよい。(占星術の前提)


つまりこの前提のもとで占星術に従うなら、

自由意志は消滅せず、占いは成功です。


もちろん、占星術だって天体の与える影響が行動の全てを支配するとは考えていないでしょう。

そういう意味では確率です。

(ここでの確率というのは、確証できないものを記述する方法としての確率ね。)


しかし、単なる確率と呼ぶこととの違いはあります。

最初の考え方では

 (占星術という方法によると)あなたは今日~する確立が高いです。

 と教えてくれる天気予報。

 (過去の気象データによると)今日の関東地方では雨が降る確率が60%です。

しかしこの考え方では

 天体の位置関係はそれなりに有意味な一定程度あなたに影響を与えます。(前提)

 今日の天体の位置はこういう状態にあります。(ここは確定した条件)

 こういう状態の天体の位置は、(占星術によると)あなたの行動にこれこれの影響を与えます。

 あなたは今日は~するでしょう。


ね。ちょっと違うでしょう。

この場合、天体の位置が行動に影響を与えるという前提が信用できない場合に信じない、となるわけ。

あとは、各占星術師が、天体の影響を正しく読み取れていると信用する必要もありますが。


この場合、

人間の自由意志によって位置を変えてしまう可能性のある地上の石の位置が行動に与える影響

という占いは成立しません。

もし人類の科学が発展して、

天体を好きなように動かしたりするようになるとき

占星術は信用できなくなるのかも知れません。


「α-ケンタウリ、邪魔だな。」

「えい、質量爆撃」

ぼーん。(宇宙では音はしません)


ところ変わって町の占い師さん。

「明日の占い、どうしよう・・・黄道十二宮とか全部、計算し直さなきゃ!!」



と、

ここまで考えてはじめから占星術ってそういうことじゃん(これこそ占星術の定義みたいなものじゃん)。

と気付いたのでした。

「かつて蓄積した情報を後になって思い出す。その時にはその出典については忘却の彼方。」

(あたかも、今はじめて出合ったり、自分で考え出したかのような気になる。)

こんな現象を「潜在記憶(クリプトムネジア)」というらしいです。


(ほんとは「ヴォイニッチ写本の謎」という本の中に、占星術の考え方みたいな記述を見つけたことに触発されて、自由意志との関連などを論じてみたんですけどね。)

確率というものは謎の多いものでして。

コインを投げて表が出る確率が1/2というのは(直感的に)理解できても、様々な分野に敷衍してみると確率というものがこの世界について何を語っているのかということが分からなくなる。

確率というものが分からなくなると、合理的な判断というものも揺らいできます。

確率の迷宮へようこそ。

出口は今世紀中に見つかるのでしょうか?


(*)以下に出てくるデータは全てisleの捏造データです。


・A氏がいる。A氏は日本人であり、現在T大学の学生である。

あなたは友人と、このA氏の血液型がA型であるか否かについて賭けをすることにした。

(あなたが好きなほうに賭けてよいことになった。友人はあなたの逆に賭ける。)


ここで、あなたは次のことを知っている。

(1)日本人の4割がA型である。

(2)T大学の学生の8割がA型である。


さて、あなたはどちらに賭けるだろうか?

(BETは100,000円と決まった。確実に当てないと痛い目に遭う。そのつもりで。)


(1)(2)のどちらの母集団がより信用に値するかは非常に難しいであろう。

母集団の数が大きな(1)の方が優秀なデータだろうか?

A氏に対してより限定的な集団を扱っている(2)を信頼するだろうか?

どちらがより信頼に足るかは分からないので5割?

平均をとって6割くらいだろうか?


(1)(2)は母集団データと呼んでおこう。

もしあなたがA氏についてほかの事を知っていればさらに敷衍できる。


・A氏は女性で、ベンツを所有していて、太宰治の小説が好きで、・・・etc.

(3)世界中の女性の2割がA型である。

(4)日本人女性の3割がA型である。

(5)ベンツ所有者の5割はA型である。

(6)太宰治の小説が好きな人の6割がA型であった。

・・・etc.


このように母集団のとり方は限りなく相対化されてしまう。


ところで、(6)のデータはこれらの中でも特殊である。

性格などは血液型とある種の相関関係が見られる、ということはよく言われる。

これを正しいものとみなしてみよう。

愛読書は性格が関係しているとみなすことができるので、これは他のデータが相対化されてしまった場合に、特別有用なデータのようにも思われる。


しかし、太宰治の小説が好きというのは恐らくこんなデータだ。

「太宰治の小説が好きですか?・・・はい/いいえ」

などのアンケートの集計と考えられる。

アンケートは一種の統計だから、母集団データの複文とみなすこともできる。

さらに、性格と血液型の相関も科学的な真理というよりは統計データである。


さらに踏み込んでみよう。

科学的な真理も、その探究の方法からすればある種の統計的判断と言わざるを得ない側面がある。

(実験結果の数値など、ある種の統計的判断によって取捨選択されているなど。)

こういう方向から、科学的な真理というものが薄弱であると議論できるかも知れない。

(ただし、科学というものはそう単純に扱えるものではないのでまたの機会に。)


話を戻そう。

一応、性格と血液型の相関を論破しなかったものとして話そう。

あなたはA氏とも交流がある。

A氏は真面目で几帳面な性格であった。

あなたには、A氏はA型のように感じられる。


あなたは統計的判断よりよほど、自分の直感を信じたくはならないだろうか?

ここにおいて、合理的な判断とはなんだろうか?

あなたはどちらに賭けますか?


最後に練習問題のつもりで別のケースを。

(Question 1)

イカサマ師のいない賭博場でコイン投げのギャンブルをすることになった。あなたは表が出るか、裏が出るか賭けてください。

・コインを投げるのはディーラーのB氏です。

・コインには仕掛けがない。

・B氏の過去のコイン投げの統計によると、表が出る確率は4割である。

・今回B氏と勝負するテーブルに関する過去の統計によると、表が出る確率は6割である。

・今日は他にもコイン投げの勝負が行われており、今日は表が出る確率が6割である。

・表が出る方に賭けて、買った人の割合は3割である。

・isleがコイン投げに関する問題を出す場合、表に賭けた方が有利であることが多いような気がする。


(Question 2)以上の流れとは若干異なるけど、ちょっと関係があって面白いので。

・B氏が投げるコインはどれもイカサマ用に細工がしてあり、表の出る確率は1/2ではない、ということだけが分かっている。

(ただし、あなたが博打の席に着いた時には既にコインを選んでいて、その後あなたの賭け方に応じた変更はしない)

この場合はどう考えますか?

(並べてこの世は分からない。故に結局は1/2だ。とか言いたくなってしまった人にオススメ。)