私は、保健室から出ていったサカキ君の後ろ姿を思い出す。
サカキ君の後ろ姿、懐かしいような…悲しいような…説明できない切なさがあった。
サカキ君、私の事、嫌いになったんじゃなかったんだ…。
でも、優しい人だから、私じゃなくても助けてただろうな。
「…でな、…処分になった」
私は水野が言った「処分」という言葉に驚き、我にかえった。
「え…先生、もう1回言って」
「なんだ、聞いてなかったのか?」
水野は、顔をしかめて珈琲を喉に流す。
私はすみませんと言って、ストローでコーラを一口飲んだ。
余程時間が経っていたのか、コーラは中の氷が溶けて、水っぽくなっていた。
「2人とも停学処分になったんだ」
「停学?停学って学校を?」
「変な奴だな、お前は…学校以外なにが停学になるんだ?
まったく…俺のクラスから停学者がでるなんて初めてだよ…」
水野は腕を組んで遠くの方を見ながら言った。
「…でも先生。サカキ君は私を助けてくれただけなんだよ?」
「あぁ、そうだろうな。
早瀬、うちの学校はな喧嘩両成敗なんだよ。
あんなに派手にやられちゃ、先生も隠しようがなくてな」
水野は肩を竦めた。
「…じゃあ、私も停学なんだ」
私は水野の目をジッと見た。
こんな顔を人に見られるよりは、停学になった方がマシだと思ったし、助けてもらって私だけがのこのこと学校に行きたくなかった。
水野は煙草を口に咥えて首を横に振った。
「いや。お前は…
本当は違うんだろうが、喧嘩の仲裁に入って巻き込まれた事になってるから停学じゃないよ」
そう聞いた私は、胃が落ち込むような、嫌な気分になった。
「…先生、停学ってどのくらいなの?」
「今までのケースからいくと、今回はだいたい1週間くらいだな」
水野は煙を吐いた。
「明日は3人とも生徒指導室に来て、学年主任、生活指導部長、そして俺に今日の経緯を話してもらうぞ。
まあ、停学の期間が決るのはそれからだな」
私は黙って水っぽいコーラを吸った。
「先生はサカキ君と野口君が喧嘩してるってなんでわかったの?」
「佐々木がな、知らせにきてくれたんだよ。
まあ、正解だな。俺がいなかったら野口はもっと酷かっただろうな」
私はそれを聞いて黙りこんだ。水野もそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、水野がそろそろでようかと言ったので、私はトイレに行きたいと言った。
水野は先に勘定を済ませて外で待っていると言った。
私は洗面台にたって、頬に貼られていた湿布とテーピングをとり、鏡に移る自分の姿を見る。
私の左頬は、紫色に腫れて2倍程の大きさに膨らんで見えた。
私は蛇口をひねり、何度も口をゆすいだ。
今日、こうやって口をゆすぐのは何回目だろう。
でも何度口をゆすいでも、あの不快な感覚を取り去ることはできなかった。
口を手で拭っていると、パフェを食べていたおばあさんが入ってきたので、私は湿布を元の場所に貼ってトイレから出た。
レストランを出た私は、お礼を言って、駐車場に停めてあった水野の車の助手席に乗り込む。
水野はエンジンをかけると、シートベルトを閉めろよとまた私に念を押して車を走らせた。
私は学校まででいいと言ったが水野は、家まで送ると頑として聞かなかった。
私の簡単なナビで15分ほど走ると、商店街と道路が交差する所まできた所で、信号が赤にかわった。
私はその隙に、車を降りた。水野は助手席の窓を開けた。
「先生お前のお父さんにも説明…」
「ここでいいよ。パパ今の時間はお客さんがいて忙しいし、ちゃんと私から説明するから」
信号が青にかわり、後ろの車からクラクションを鳴らされると、水野は
明日、教室には行かなくていいから
11時までに生徒指導室にくるように、今日は9時頃まで学校にいるからと言った。
私は短いクラクションを鳴らして去って行くキャラバンを見送り、商店街に足を向けた。
私はそのまま家には帰らず、商店街と一つ離れた通りを歩き、あの場所へと向かった。
坂の中ほどまで上った所で、ポケットの中でケータイが鳴った。
ケータイをひらくと、
画面に着信、すみれと表記されていた。
「もしもし?」
『あ、やっと繋がった。あんた電源切ってたでしょ』
電話の向こうのすみれの声、少し怒ってる。
「あ、電源切ってた…病院にいたから」
私は最後の言葉を付け加えるか、迷ったがすみれにならと正直に言った。
しばらく沈黙が続き、すみれは溜め息をついた。
『あんた…、野口にやられたんだね?』
「え…うん」
『…で、榊が仲裁に入ったってわけ?』
「うん…多分」
『多分てなによ?』
私は野口君から殴られて気を失った事。
それからは気を失って何が起きたか覚えてない事、サカキ君が野口君に怪我をさせたらしいと水野から聞いた事を話した。
私が、こんな事を話せるのはすみれ以外にはいなかった。すみれはおもしろがって他人にこんな話をする人では無い。
すみれは人の話を自分の中でじっと吸収して、適格な事を言ってくれる。
しかし、いくらすみれにでも野口君からされた事は言えなかった。
『なるほどね…野口があんたに何したかは知らないけど…
アイツどうしょうもないクソ野郎だ』
「すみれ、今授業中じゃないの?」
私はケータイの画面をみて時間を確かめた。
「ああ、いんだよ授業なんてさ。
それより野口、黒板がどうとか言ってなかった?」
「…言ってた」
すみれは深い溜め息をついた。
『内容は?なんか言ってた?』
「言ってない。『コケにしやがって』って言ってた」
なるほどね、と言ったすみれはしばらく黙っていた。
そして、口を開くと、黒板に何が書かれていたか、教室で何があったかをゆっくり説明してくれた。
内容は私の予想通りだった。
私はだいたい理解したところで、すみれにお礼を言って電話を切り、また、長い長い坂道を上りだした。
水天宮には、見慣れた姿があった。
彼はいつも私が座っていた石段に腰掛けて海を見ていた。
私が鳥居をくぐり、本殿へと続く石畳を半分ほど行ったところで彼は振り向いた。
「久しぶり…だね」
私は足を止めた。
彼はまた海の方をみて「ああ」と素っ気ない返事をした。
私は彼から少し離れた所に立ってわざとらしい、明るい声で話しかけた。
「いつぐらいぶりだろう?」
「5年と8ヶ月ぶり」
「え?」
私は笑いながらサカキ君を見る。
「あ、ここで会うのが?確かに…」
「違う。あんたと話すのが」
私は訳が分からず、サカキ君の横顔を見た。
「あ、あの…さっきはありがとう。なんか、助けてもらって…」
「あんた」
サカキ君は私の方へ目線だけ向けた。
何だかいつもと感じが違う。
「なに?」
「あんた、アイツにどこまでやられた?」
私は赤くなる。
「そんな言い方っ…」
「いいからどこまでやられたか聞いてるんだよ」
サカキ君は苛ついた声で続けた。
「キスされただけか?」
「…うん」
「舌は?」
私は黙ってしまう。
サカキ君は舌打ちをした。
「アイツ…さっき殺すんだったな…」
サカキ君の目を見た私は、全身に鳥肌がたつのがわかった。
私の目の前で眉間に皺を寄せながら、煙草を吸っている男は、いつものサカキ君とは全くの別人に見えた。
最後に別れたあの日にも、サカキ君はこんな顔を私に見せていない。
サカキ君は、煙草を捨てて私を見た。
私は一瞬でその目に吸い込まれていた。
それは、恐怖さえ感じる憂いに満ちた残酷な目。
男は私を見つめたまま、ゆっくりと立上がった。
私は、不思議と目の前にいる男が、サカキ君じゃない事だけはわかった。
「あんた…だれ?」
「リュウ」
「あんたの、初恋の人」
この瞬間から、私の足の下に敷きつめてきたパズルが、パラパラと音をたてて剥れはじめた。