J・McEnroeの自叙伝「Serious」をこう読んだ(10) | ひとときのときのひと

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そんな人間が、ためになる言葉を発信します。


まずは英語から。

 

 JMcEnroe、ジョン・マッケンロ。1970年代から1980年代前半にかけて、B・ボルグやJ・コナーズらと共に世界的テニスブームを巻き起こした米国人プレーヤーです。

 

 この本「Serious (まじ)」は、そんな彼が40歳を少し過ぎたごろに幼少期から現役引退ごろまでを回想する内容となっています。

 

 翻訳版が出ていないものの、テニスファンでない方でも、にやりとするようなエピソードがいくつもあるので、ご紹介しています。

 

 さて、1985年の半ばにマッケンロはレンドルに世界第1位の座を奪われ、その後、何度か大きな大会にも出場し、首位奪還をはかります。しかし、勝ち上がることが困難になり、ついに1986年の初めから約半年にわたり、ツアーから離れ一種の休養期間を取ることとなります。

 

 その背景の一つとして、彼の誇る変幻自在なテクニックが、レンドルやベッカーといった長身・怪力型プレーヤーには通じなくなったことがありました。

 

 また、テクニックもパワーもさほどではないものの、戦略に優れたプレーヤー、ブラッド・ギルバート(彼は、後年、スランプに陥ったアガシをコーチとして担当し復活させます)のような選手にも、マッケンロは勝てなくなってしまっていたのです。

 

 もうひとつの背景は、女優テータム・オニールとのあいだに子供をもうけ、結婚し、そういった私生活を重視し始めたことにもありました。

 

 彼自身は、ニューヨーク出身なのですが、テータム・オニールと出会った西海岸、そのマリブという地域にある高級住宅地に一軒家を購入してから、そこで一日中、海を見渡せる、のんびりした暮らしに魅入られてしまっていたのです。

 

 しかし、そんなマッケンロも、いよいよ翌年1986年になると再起をかけてツアーに戻ります。

 

 ところが、光はなかなか見えてきません。いくつかの大会で優勝しますが、その年のランキングは40位止まりとなってしまい、年末のマスターズというトップランカーが集められる大きな大会には出場資格なしとなってしまいます。年初のもくろみが果たせないことにガックリというわけです。

 

 また、正式に妻となったテータム・オニールとの間にも亀裂が入り始めます。それは、慎重には慎重を期していたはずなのに、テータムが二人目の子を妊娠してしまったことに端を発していました。

 

 All couples fight ー couples need to fight ー but our quarrels were nasty, and they escalated fast. We both had tempers, and Tatum was no shrinking violet. She was a tomboy from a tough household: Both her father and her brother had short tempers. As our relationship grew contentious. I noticed that whenever I raised my voice, she would flinch, as if I were about to hit her ー except that i never had or did.

 

 どんなカップルもケンカする– ケンカする必要があるからさ– でも、僕たちのケンカは、やっかいなことに、すぐにエスカレートしたんだ。僕らは両方とも、かんしゃく持ちだし、テータムは内気なタイプではなかったしね。彼女は、難儀なおうちのおてんば娘だったのだ。というのは、テータムの父親や兄貴は、すごいかんしゃく持ちだったから。僕らが口論しがちな仲になとと、僕が声をあげるときはいつも、まるで僕が彼女を今にも殴ろうとするかのように彼女が思ってたじろぐのを感じたよ。殴るなんてことは、してこなかったし、しなかったが。

 

 こんな家庭不和に加えて、復活をかけたコーチ選びでも、人選がうまく進みません。しかたないくかつての、つまりジュニア時代のコーチを再び雇うことにしますが、今の自分には「おとなしすぎ」全く不向きなことが判明します。また、長年の酷使による腰や肩の痛みも増してきています。

 

 そういった自分の思う通りに行かない幾つものイライラが募りに募り、ある試合中、大声で叫んだりしてしまったことで彼はペナルティを審判から取られます。

 

 そのペナルティが更に彼の怒りに火をつけたこととなり、ついに試合途中で彼は退場してしまいます。

 

  そんな家庭生活においてもテニスプロという仕事においても、非常に苦しい時代を回顧して彼は、この本の中で「ボルグのように惜しまれて引退するというのも正しいのかもしれないが、僕はそうしなかった」と述解しています。そして、さらにこんなことも言っています。

 

 What I really wanted was for the world to read between lines, to see my little son and my pregnant wife and know what I was thinking and feeling. I wanted to show everybody that certain things in life were important than another Wimbledon title. I was groping my way toward that understanding: Couldn't the rest of the tennis world understand it along with me?

 And, of courese, the word I heard back was 'MacEnroe has gone over the edge.'

 

  世間の人がもっと察してくれないかとほんとに期待してたんだ、つまり僕の子どもや妊娠してる妻を見て、僕が何を考えているか何を感じているかを知って、そして察してほしかったんだよ。人生である種のことがウィンブルドンのタイトルよりもずっと大切であることを、みんなにわかってほしかったんだ。そんな理解を求めて手探りをしていたところだったんだ。しかし、テニスに縁のない人々は、僕に寄り添おうにも寄り添えなかったってことなんだよね

 そして、当然のことながら、僕が聞かされたのは「マッケンローは、狂っちまった」だったんだ。

 

 天才の孤独とは、こういうことを指すのでしょうか?

 

 彼の苦難の道はまだまだ続きます。

 

 マッケンロは、国別対抗戦のデビス杯もしばらく出場していませんでしたが、彼の不在中、どんどんと米国チームの戦績が落ちていくのに知って、チーム参加を願い出ます。

 

 しかし、かつてのナンバー1とはいえ、40位にまで落ちていて、しかも試合中もトラブルの多いマッケンロを当時の監督は、すぐに受け入れません。最終的にはにその監督も折れて彼をチームに加えるのですが、米国チームはドイツと対戦して敗退を喫するという結果に終わります。