日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。同氏の未邦訳「Japan Rising」の第五章「国際自由主義が唱える異議」の要約をしました。
(未読の方は↓ご一読願います)
以下、感じたところを共有したいと思います。
1.日米相互の相手国理解不足
前章では「日本人が歴史的に受け継いでいる位階志向(平たく言えば、ランキング好き」が徐々に満たされなくなっていった点が、先の大戦勃発を招く要因の一つとしてクローズアップされていました。
この章では、米国主導の国際自由主義に基づく新秩序が東アジア(の植民地)には当てはまらないと感じる日本、その大いなる不満、憤慨に焦点が当てられていました。
日露戦争勝利までは、「坂の上の雲」をせっせとに追いかけていたのに、上り切ったと思ったところで突然、白い雲がどす黒い暗雲に変わってしまった。そう言い換えてもいいかもしれません。
そんな日本の見込み違い以外にも、日米間緊張の要因が後から後から出てきています。傍目(はため)には「よせばいいのに」と思わせるくらい、相手の地雷に触れまくっています。
要約では省きましたが、たとえば、アングロサクソン国の首脳が露骨に日本の首脳を「醜い」と見て、会議同席を毛嫌いする場面は記録に残っています(とパイル氏が史料を引用しています)。
また、米国の意向が間接的とは言え、強く反映されたため、人種差別撤廃条項という日本の提案が採択されない結果となったことは、日本のプライドを大きく傷つけてしまいました。ただでさえ、名誉とか位階とかにうるさい国なのに。
その一方、日本も、「幣原外交」で穏健な態度や列強への追従を装いつつも、米国の掲げる「民族自決」や「門戸開放」を無視したような振る舞いを止めませんでした
日本がここまで「負け知らず」で疾走してきたために、妥協点を簡単に見いだせなかったのか、それとも米国が日本それほどの国とは思わず、一種見くびっていたのか。
いずれにしろ、相互の理解不足を埋める手立てがなかったのかという気がします。
2.「国際的な普遍的価値」に対する疑問
この章では、新しい国際秩序が米国から提案される形となっています。それは、確かに一つの変化かもしれません。しかし、少し離れてみると何のことはない、西洋人が西洋人の価値観に基づいて変更したのであって、日本は殆ど最初から最後まで、主導役にはなれません。
よく「普遍的価値によって」ルールは決められると言われますが、実際はどうでしょうか。
たとえば、日本人の間では「人の意見は最後まできくこと、それから自分の言いたいことをいいなさい」が常識かもしれません。
しかし、そう思っている西洋人はいない、とまでは言いませんが、決して常識ではありません。むしろ、逆です。
こういった発言のタイミングについての考え方の違いは、英検1級(2次試験の)面接練習においても感じないではありませんでした。日本人は、相対的におっとりしている、のんびりしていると見られる傾向があります。その印象がぬぐえません。
また、もっと次元が低い例かもしれませんが、約束の5分前到着(集合)もそう。そんなことにこだわるのは日本だけと言ってもいいくらいです。少なくとも、世界の常識ではない。
ちなみに、Sorry to have kept you waiting(お待たせしてしまってすみません) は、日本の英会話本に載ってはいます。しかし、外国人の相手が自分に対して使ったことはありません。少なくともビジネスの現場では全く記憶にありません。外国映画・ドラマでも、自分が知る限りありません。
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ルールを作る際の基礎となる「価値観」とは、誰にとって「普遍的」なのか。言い換えれば、誰が、誰に対して「これは普遍的価値観である」と宣言し決めるものなのか。
もちろん、先の大戦前後の問題でしかなかったというような、安易な片付け方はできないでしょう。
現在も、この「話が通じない」状況は世界に横溢(おういつ)しています。永遠に解決不可能な問題なのかもしれません。
さらにもう一歩進んで、検討するべき論点があります。特に英語に係わって仕事をされている方は。
仮に、世界の誰もが首肯(しゅこう)できる普遍的価値観が存在し、円滑にルールが制定されるとして、それは、いったい「何語」でまとめられ、「何語」で公布されるのでしょうか?
そのときにその言語による意味の偏り(bias)が、まったく存在しないと考えられるでしょうか?その言語を使用する国家群に利する偏りが、まったく存在しないと考えられるでしょうか?