「悟りとはなにか?」

悟りの定義は
わたしには判りません

「悟り」という言葉
その言葉からうける
わたしのイメージです

自分が思った
「悟り」のイメージは
この世界の全てを知る

この世界・宇宙の姿を
知覚できる意識
物質が波動という姿

それを全て
あるがままに知覚し
一体となる能力

それは本当の姿を知見
そして時間及び空間で
起きる事全てを

在るがままに識ること
のできることを「悟り」
であると思います

ここからはフィクションとして見て下さい
わたしは二十代はじめに
その「悟り」の状態を
たぶん擬似体験ですが
経験した事があります

「悟り」その擬似的
状況を一定期間ですが
体験しました

それに至った経緯は
あまり思い出したく無
いため書きません

簡略して言葉にすれば
自分と他人を分ける
思考が曖昧になっていた

物欲などがなくなり
心は平安で安らぎに
満たされていました

社会・世界の事がらが
柔らかく心に入り
何も悩みがなく

喜びや悲しみや苦しみ
もなく心の起伏もない
ただ世界が安らかに
在る

その平安な時を得るには
わたしという個人が
まだ残っていた

しばらくその状態が
続いたあと

その迷いが無い状態が
とても
物足りなくなり
まだ我欲が残っていた

もう一度普通に苦しみ
や楽しみがある生活に
戻ろうそう思いました

それは「悟り」を離脱
感情の在る生活を
みずから求めたのです

歳老いてから
人生が終わる頃に
もう一度悟れれば
でした

私はみずから望んだ
喜びや苦労や悩みある
人生を送ってきました

わたしの「悟り」の
話しはここまでに
します

追記
悟りをこんな世俗的なかたちで書いてしまい本当に申し訳けありません。悟りを正しく求められている方々がたくさんおありであると思います。どうか笑ってお赦し下さい。


話を仏陀の「悟り」へ

その前に

脳科学者がもたらした
左右脳の特徴から
悟りを科学的に

脳を左半球の脳「我」と
穏やかで平安な右半球の
脳「無我」と見ます

その「我」である左半球
の脳の活動を休止させる
ことで

右半球の脳「無我」が
世界・宇宙と一体になる
大きな心が優先される

そこからわかる事は
人間であれば誰もが
無我の境地を得られる

得られる可能性は
99.9%の人類としての
共通するDNA

人は皆
「悟り」に到達できる
と言う事だと考えます

ところでわたしは
ひとは悟りの手前が
良いと思います

その悟りの手前とは
人生にある『苦悩』を
避けられる位置です

それは
四苦八苦を避けられる
しくはっく
そんな状態が良いと
思います

悟られたお釈迦さまは
人の苦悩を四苦八苦で
わかるように教えて
下さっています。

その四苦八苦は
生命あるものの基本の苦
「生老病死」の四苦
しょうろうびょうしのしく

そして生きて生活や
他人との関わりから
発生する四つの苦
「愛別離苦」
「あいべつりく」愛する人との別れの苦しみ
「怨憎会苦」
「おんぞうえく」他人を憎み呪う苦しみ
「求不得苦」
「ぐふとっく」求めるものが得られない苦しみ
「五蘊盛苦」
「ごうんじょうく」
を合わせた四苦八苦です

ここで五蘊だけが
何故か他の苦に
被っているので

五蘊について補足します
五蘊は色受想行識の
物質や想いや行いなどの
五つの蘊(集まり)のことです

以上を脳の仕組みから
得られた
「悟り」とします。


追伸
この科学的に求められる
「悟り」は仏陀の悟りと
同じものなのだろうか?

本当にこれを真実の
「悟り」と思って
良いのか?

「悟り」は単に人間の
脳の仕組みの問題だと
みて良いのだろうか

そんな疑問が残ります
「心」は単に脳細胞が
つくりだしたものなのか

「心」とは?何で
何処にあるのか?それを
考えてみたいと思います