神明三ケ条の御文  「文句を言いたくなった時こそ、自分の闇の扉を開けるチャンスである」 | 新・坊主日記

新・坊主日記

2007年2月22日からブラジルの、サンパウロ別院でお仕事をする事になりました。
日本とは場所も言葉も文化も違うところですが、人間が喜怒哀楽の中で生きているのは同じです。
沢山の人たちに出会って共に学び合いたい!
坊主日記、2014年からはマリリア編に突入!

神明三ケ条の御文 Bom dia Rito matinal do Templo em Marília. ブラジル🇧🇷お寺から朝のお参りLive.

 

 

おはようございます。今日もマリリアは天気です。サラもうれしそうに朝日を浴びています。 お賽銭箱の前で・・・

 

さて今日は正信偈のお参りです。

こちらからお勤めの本をダウンロードできます。 (無料です)

正信偈は29ページからとなります。動画内でもページ数をアナウンスしております。

 

こちらは有料ですがよろしかったらどうぞ↓

 

 

 

それではお勤めいたしましょう!

 

 

 

(2ー3) 神明三ケ条の御文

 

 それ、当流開山聖人(親鸞)のひろめたまふところの一流のなかにおいて、みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、所詮向後は、当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、また来集の面々も、各々に当門下にその名をかけんともがらまでも、この三箇条の篇目をもつてこれを存知せしめて、自今以後その成敗をいたすべきものなり。

一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
一 諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。

 右この三箇条の旨をまもりて、ふかく心底にたくはへて、これをもつて本とせざらん人々においては、この当山へ出入を停止すべきものなり。そもそもさんぬる文明第三の暦、仲夏のころより花洛を出でて、おなじき年七月下旬の候、すでにこの当山の風波あらき在所に草庵をしめて、この四箇年のあひだ居住せしむる根元は、別の子細にあらず、この三箇条のすがたをもつて、かの北国中において、当流の信心未決定のひとを、おなじく一味の安心になさんがためのゆゑに、今日今時まで堪忍せしむるところなり。よつてこのおもむきをもつて、これを信用せばまことにこの年月の在国の本意たるべきものなり。

 一 神明と申すは、それ仏法において信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、これをなにとしてもすくはんがために、仮に神とあらはれて、いささかなる縁をもつて、それをたよりとして、つひに仏法にすすめ入れしめんための方便に、神とはあらはれたまふなり。しかれば今の時の衆生において、弥陀をたのみ信心決定して念仏を申し極楽に往生すべき身となりなば、一切の神明はかへりてわが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、念仏の行者を守護したまふべきあひだ、とりわき神をあがめねども、ただ弥陀一仏をたのむうちにみなこもれるがゆゑに、別してたのまざれども信ずるいはれのあるがゆゑなり。

一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。
一 諸仏・菩薩と申すことは、それ弥陀如来の分身なれば、十方諸仏のためには本師本仏なるがゆゑに、阿弥陀一仏に帰したてまつれば、すなはち諸仏・菩薩に帰するいはれあるがゆゑに、阿弥陀一体のうちに諸仏・菩薩はみなことごとくこもれるなり。
一 開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽するとす。されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、一念をもつては往生治定時剋と定めて、そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。そのほかかならずしも外相において当流念仏者のすがたを他人に対してあらはすべからず。これをもつて真宗の信心をえたる行者のふるまひの正本となづくべきところ件のごとし

  [文明六年甲午正月十一日これを書く。]

1471年。蓮如上人五十七歳。

 

感話

 

いつも参考にさせてもらっている現代の聖典 蓮如五帖御文の解説に本地垂迹説が採用されている事が書いてあって興味深かった。その意味は上記の御文にも書いてありますが、わかりやすくいうと全ての神々は全て仏様の教えに導くための仮の姿なので仏様と日本古来の神々は対立するものでは無いと教えるものです。

 それは一見蓮如上人の時代に真宗念仏の教えが興隆して他の宗派や宗教と対立が激しくなったことを収めるためにこういうお手紙を書いたように捉えがちだが、本質はそうではなく、念仏の教えを本当にうなずいた者は、他を責めるような事が起こった時にこそ、自分の雑行=自力のエゴイズムの心を思い知って阿弥陀仏の差別することのない平等の慈悲の心に感謝し、日々の生活を歩むのである。と教えてくれます。こういうことも日常生活の人間関係に起こる問題と同じことです。

 人を憎む、またはけなす心が起こるときこそ自分の心の中心点がずれているぞ!と教えてくれる一つのシグナルなのではないでしょうか? その時にふとまず自分自身を見つめ直し、他人の表立っては自分とは違う主義や主張にも自分を目覚めさせるメッセージがあることを感じた時。 それを仏智の不思議に邂逅する時ではないでしょうか? ここで不思議というのはマジックという意味ではなく不可思議、つまり自分のいままでの常識判断を超えた納得を得た境地のことです。

 

以上、感想でした。

 

それではまた明日も一緒にお参りしましょう!

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