
近頃、どうしても立ち上がることが出来ない困難な人生の出来事から如何に行き通していくことが出来るのだろうか? というテーマの映画、小説が多い。 キレイ事抜きで。
この「キレイ事抜きで」というのが現代のテーマとなっているように思う。それほど今は険しい時代なのかもしれないですね。
「さよなら渓谷」
この映画もそのテーマと真剣に向き合った映画。
「悪人」の原作者吉田修一の他の作品が原作なのですが、映画「悪人」は最高に面白かったが、なにか「さよなら渓谷」は突き刺さる感じが少なかった。展開や映像、役者さんたちも魅力的なのになぜだろう?
セリフや、作品のテーマも「罪」を贖うこと、幸福な人間、人が人に肉薄していく様が描かれていて愛慾と、愛慾を貪欲に貪り合っているはずの人間がもっとそれ以上の何かに翻弄されて流されながら、しかし最後は自分の意図とは違う存在に包まれていく様が描かれていたと思う。
しかし、なんか、リアリティーがないというか。 ・・・・ グッと来なかった。
真木よう子が美しすぎなのがひとつの原因だったのではないか? 綺麗に写しすぎなんですよね。 真木よう子が映画で出していた存在感がどうもテーマに合わなかったのかもしれません。 濡れ場も含めて。「キレイ」過ぎたのかもしれません。 どろどろ感が弱かったのかな?
個人的には真木よう子にグッときますが・・・ この映画に合わなかったのかも?
しかしこの映画のテーマには感じるものがありました。一度起こった「罪」がたとえ償おうとする本人、また償われる対象の方でも、これをいかんとも解消できない苦しさ。これをどうするのか!?
普通なら時が解決するのを待つ。大したことじゃないのだと思い込む。
それは新聞記者が事件深い内容を知っても紙面には出さなかった場面で語られます。
現代のメディアは表面的でわかりやすい「善」と「悪」光と闇、「泣ける」などを描くにとどまって、リアルな人間の生き様を表現できない仕組みになってしまっているようです。
読む方にも問題があるのでしょう。
本当は事件が起こらずとも人間生きていたらだれでも判決が出でない、一生解決の付かない出来事にぶち当たるものです。たとえ多少の差やその深みは違っていても、一生癒えない傷として誰もがもっているはずです。そして、その痛みは実はどんな幸福や、特別な愛の薬でも癒やすことが出来ない。
ところが、現代では痛いはずの出来事を笑い飛ばして「痛くなかった」事にして生きている。 そんなのに一々かまってては行きていけない。「なぜそんな所に引っかかってんの?」 「そんなのマイナス思考でしょ!?」 と断定して折り合いをつけ生きていこうとする。
ところが、この映画は痛みを痛みとして感じる大切さを伝えている。人生の痛手を忘れることが幸せではなく、人生の痛みを「痛み」として感じ続けることの大切さを表現している。
主人公の女性は流し忘れ解消されるべき「痛み」を流すことが出来ないところまで追い詰められ翻弄される。しかし、いつしか癒やしたかったはずの致命的な傷が人生の歩みをすすめる原動力になっていたことを知って、癒やされることを拒否している自分を発見する。
彼女は、ともに抗いがたいものに青ざめる相手が欲しかった。 傷を癒してくれる相手とは「さよなら」するしかない。 だから彼女は自分の傷の最大の目撃者と一緒に生活するのである。 ここにこの映画の凄みがある。(ハズである)
それは上流の川の水が渓谷を過ぎて大海に流れ出していくようにどんなに愛しあった仲の人間同士でも、また憎みあったもの同士でも止めることが出来ない流れ。「業」なのでしょう。
誰も判決を出してくれない(だせない)底の見えない渓谷のような人生の流れが、いつしか不思議と人生を癒す大いなる大河に転化していく様が表現されている。
「最近ここ「渓谷」に涼みによく来るんですよ。もっと早く来ればよかった」
とのセリフ。
翻弄されいやいや流されたはずの人生の濁った流れが、澄んだ瞬間で視聴者も少し慰められる。
「キレイ事抜きで」
この映画の罪は真木よう子が美しすぎたところ。
真木よう子さん! 傷つかないでね、すきだよー! (^^)
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