一休禅師のおはなし、補足 | 新・坊主日記

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2007年2月22日からブラジルの、サンパウロ別院でお仕事をする事になりました。
日本とは場所も言葉も文化も違うところですが、人間が喜怒哀楽の中で生きているのは同じです。
沢山の人たちに出会って共に学び合いたい!
坊主日記、2014年からはマリリア編に突入!

一休禅師でわたしが最初に思うのは、「ああ~ あのとんちんかんちんの人ね」くらいのものですが、大人になってから知った事は、一休は実在の人物であり、破天荒な人であり、遊女とねんごろになり、そして蓮如上人と親友だったということを知った。

そして、先の骸骨を杖にさして歩いた逸話と、「冥土の旅」の句も聞いた事があった。
そこで、軽い気持ちでこの逸話を持ち出したら、一休さんが冥土の旅から帰ってきて、わたしに向かってこう言った

「あけまして、おめでとうございます」

一休禅師はお正月生まれだそうです。


さて補足と訂正ですが

一休禅師が正月で皆が浮かれる中、よれよれの法衣を着て寒風の中棒に骸骨をさして歩き

「元旦は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

とのこのお話ですが、語句に間違いがありました。
「元旦」ではなく、「門松」が正しいそうです。「元旦」や「正月」と記してあるページを見つけて、それを鵜呑みにしておりました。 s h yさんご指摘ありがとうございました。

年の初めに飾る「門松」と人生の旅路の「一里塚」とをかけて「人生の年輪をまた一つ刻んだしるし」という意味になります。
 
さて、仏教では「あけましておめでとう」と言わないと書いてしまいましたが、それは仏教で「おめでとう」を禁止しているという意味ではなく、むしろ「おめでとう」の意味を噛み締めよう!ということです。もっと丁寧に書くべきでした。

人間、元気がない日もあるし、つらい日もあるけれども自分にとっておめでたいと思えない日々にも感謝したいものだ、と呼びかける気持ちを表現しようとしたのです。

正月だけがおめでたいわけではなく、元気で年を越せることがおめでたいのでもなく、どんな境遇でも、今の一瞬一瞬が与えられた尊い命であると目覚めることが大切だと教える、一休禅師らしい逆説のパフォーマンスなのです。

元旦だから、習慣だからという事で「おめでとう」と声をかける人に、本当の「おめでた」とはなんだろうか?と振り返る事を促している、逸話なのです。

年末に御亡くなりになった方もおいでになります。それを(私が)元気で年を越せたからと言って無条件におめでとうとはいえない。

一休禅師の教えは、年を越せた事をあたりまえと思い込んで「おめでとう」という習慣に「それでいいの?」と問いを投げかけているのです。

私たちは元旦の日に生まれる命もあれば、失っていく命もあります。
日常では生まれた命には「おめでとう」というけれど失った命には「御愁傷様でした」といいますが、命の真実から見つめ直すと生まれた命も、亡くなっていく命も、共に尊い命に違いないのです。

元旦だからというだけで「おめでたい」とはいえない命を生きているのが、本来の私たちのあり方なんですね。

そして新年を「おめでたく」なく越していく人は世界中に多くいるのです。

それを、元旦だから、日本人だから「習慣に従おう」とか新年の新たな日のおとずれだから
「おめでとう」といおう!
というのは、人生の苦楽や生き死の厳粛な事実に目を背けている人間の愚かさ哀れさの表れなのです。仏教だけの話では無い事がわかっていただけたら嬉しいのですが。

しかし、苦楽があり、山あり谷ありの人生だからこそ、せめて新年に「おめでとう」と言って励まし合おうよ!という話になりがちですが、それも違います。

一休禅師は伊達や酔狂で「おめでた」に水を差した訳ではないのです。
むしろ世間にある「おめでとう」と言えない人々に暖かい眼差しを向けた行為であるとも言えるのではないでしょうか。

そして「お目出度いか、お目出度くないか」は、その時々の自分の都合で、人間が勝手に作り上げている妄想である事に気づいていく事が大切なのです。そして、なかなかそこに気づく事が出来ない「人間の正体」を知ることを期待している教えが仏教なのです。

お経は言葉の中に、祭壇や仏像にはその姿の中に、日常を突き破っていく励ましのメッセージが込められているのです。

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

あらためまして「あけまして、おめでとうございます!」
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