「減らない謎」 | 京都市某区深泥丘界隈

京都市某区深泥丘界隈

綾辻行人原作『深泥丘奇談』の舞台、京都市某区深泥丘界隈を紹介します。内容は筆者個人の恣意的な感想に過ぎず、原作者や出版社とは関係ありません。

「減らない謎」は、主人公の「私」が、健康のためにダイエットに挑戦するも、体重が減らないばかりか徐々に増えていくという謎めいたお話です。

 

深泥丘界隈でダイエットにまつわる場所はないかと探してみると、河合神社という場所が見つかりました。 河合神社は下鴨神社の摂社で、 正式な名称は鴨川合坐小社宅神社(かものかわあいにいますおこそべじんじゃ)といい、祭神は神武天皇の母、玉依姫命(タマヨリビメノミコト)です。近くに住んでいながら全く知りませんでしたが、玉依姫命は玉の様に美しい事から美麗の神として信仰されており、ダイエットや美容に関心の高い女性から人気の神社だそうです。

 

玉依姫命がどのように美しいのか『古事記』を読んでみました。玉依姫命は『古事記』では玉依毘賣命と書かれていて、海神の娘です。豊玉毘賣命(トヨタマビメノミコト)という姉がおり、豊玉毘賣命は、海に落として失くしてしまった鉤をはるばる探しに来た火遠理命(ホオリノミコト)と結ばれます。その後地上に帰っていった火遠理命を追いかけ、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)を生みますが、鮫の姿になって出産しているところを火遠理命に見られたため、再び海に帰ってしまいます。その後、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命を育てるために地上に送られたのが玉依毘賣命です。玉依毘賣命は成長した天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と結婚し、後に神武天皇となる神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)を生みます。ところが、豊玉毘賣命についてはその行動や容姿について記載があるのですが、なぜか玉依毘賣命については殆どありません。美しいとは一言も書かれていないのです。

 

一方、第十代崇神天皇時代の話に活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)というよく似た名前の人物が登場します。活玉依毘賣のところには、毎晩その姿や装いが比類のない男性が通ってきて活玉依毘賣は身ごもります。その男性が何者かわからないため、糸巻きに巻いた麻糸を通した針を裾に刺して男性が帰った後辿っていくと、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)を祀る山の神社に辿りつきます。糸巻きに残った糸は三輪であったので、この山を三輪山と呼ぶようになったといういわゆる三輪山伝説です。この活玉依毘賣の容姿については、「・・・活玉依毘賣、其容姿端正。」と書かれています。

 

また、下鴨神社本社西殿には賀茂建角身命 (カモタケツヌミノミコト)が祀られていますが、東殿にはその娘である玉依媛命 (タマヨリヒメノミコト) というこれまたよく似た名前の女神が祀られています。このようにタマヨリという名はあちこちに登場します。これについて『日本書紀』(岩波文庫:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注)では、「タマは生命力。ヨリは馮りつく意。タマヨリはタマの馮りつく人。つまり巫女。・・・タマヨリは、むしろ普通名詞として理解される言葉であった。」と注解されています。このことから、玉依姫命=活玉依毘賣=玉依媛命と同一視され、玉依姫命も容姿端正と解されたのかもしれませんね。

 

 
河合神社に行って来ました。多くの女性が参拝されていました。

 

 

女性の皆さんは鏡絵馬を奉納されていました。 絵馬にあらかじめ描かれた顔を自分の顔に見立てて、美しい女性になれるよう願いを込め、化粧して奉納します。メイクは自分の化粧品を使用しますが、 メイク道具がなければ神社からクレヨン・色鉛筆を借りることもできます。メイクが完成したら、裏面には願いごとと自分の名前を記します。そして本殿祭壇前にある鏡に自らの姿を写し祈願して奉納します。

 

 

一方、境内に美麗神のイメージにそぐわないような質素な建物がありました。 これは、鴨長明が晩年過ごしたと言われる方丈の庵を再現したものです。

 

鴨長明は、1155年下鴨神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として生まれましたが、父・長継が没した後は、後ろ盾を失います。長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争いますが、敗北してしまいます。さらに、1204年、河合神社の禰宜の職に欠員が生じたことから長明は就任を望み、後鳥羽院から推挙の内諾も得ます。しかし、鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから長明の希望は叶わず、神職として出世の道を閉ざされることとなります。間も無く長明は大原(現・京都市左京区)に籠もり、数年後に日野(現・京都市伏見区)に方丈(約3m平方)の分解移動可能な庵を結び、『方丈記』を執筆します。ですから、方丈の庵は河合神社の境内にあった訳ではありません。むしろ、下鴨神社や河合神社との縁が切れたことが方丈の庵を結んだきっかけになった訳ですから、この場所に方丈の庵が再現されているのを見たら長明は複雑な気持ちになるかもしれませんね。

 

長明が隠遁生活を始めたきっかけは、上に述べたように河合神社の禰宜になれなかったことにあると言われていますが、このことは『方丈記』には触れられていません。しかし、分解移動可能な庵を考案した動機については詳しく述べられています。平安末期の大火、地震、飢饉、戦争等で多くの家屋や人命が失われていくのを目の当たりにし世の無常を感じた結果、必要以上に広い家を建てることに意義を見出せなくなったのです。衣食に関しても同じ考え方です。「藤の衣、麻の衾、得るにしたがいて、肌をかくし、野辺のおはぎ、峰の木の実、僅かに命をつぐばかりなり。」と述べています。究極のミニマリストによる究極のダイエットと言えるでしょう。命に関わりますので、真似をしてはいけませんが、飽食の時代の今こそ、その考え方については学ぶことが多いのではないでしょうか?炭水化物大好きでBMI29.3の私も大いに反省させられます。

 

ダイエットを考えておられる方は、河合神社にお参りし成功を祈願すると共に、方丈の庵を見て鴨長明の生き方に思いを馳せてはいかがでしょう?