「忘却と追憶」 | 京都市某区深泥丘界隈

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綾辻行人原作『深泥丘奇談』の舞台、京都市某区深泥丘界隈を紹介します。内容は筆者個人の恣意的な感想に過ぎず、原作者や出版社とは関係ありません。

「忘却と追憶」は、主人公の「私」が奥さんとご近所の森月夫妻の4人で白蟹神社の奇妙なお祭りを見に行く話です。そのお祭りでは、毎年氏子から一人を選び、黒装束の宮司が一つ目で銀色の<忘却の面>を被せるという異様な「忘却の儀式」が執り行われます。

 

深泥丘界隈で仮面の祭りとして有名なのが、吉田神社の節分祭です。吉田神社は京都大学吉田キャンパスの東にある神社で、京都大学出身の作家、万城目学氏の『鴨川ホルモー』に登場する、けったいな儀式を行う場所としてご存知の方も多いかと思います。創建は859年で、藤原山蔭が藤原氏の氏神である春日大社の神を勧請したのが始まりといわれています。したがって、祭神は春日大社と同じく建御賀豆知命(タケミカヅチノミコト)、伊波比主命(イハイヌシノミコト)、天之子八根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメガミ)の四柱です。平安時代中期に吉田神社の社家となった卜部氏からは、多くの文人や学者が輩出し、鎌倉時代に『徒然草』を著した卜部兼好も、出家して兼好法師と呼ばれましたが元は吉田神社の神職の子です。後の時代に卜部氏は吉田を名乗るようになったので、兼好法師は吉田兼好と呼ばれることも多いですね。

 

室町時代末期に、吉田神社を一大勢力に押し上げたのが吉田兼倶です。「鈴」のところで書いたように、 仏教が隆盛を極めて行く過程で、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れたとする本地垂迹説が採られるようになり、神仏習合が進んで行きました。 しかし、鎌倉時代中期に仏が神の仮の姿であるとする神本仏迹説が出現します。吉田兼倶はこの思想をさらに推し進め、日本古来の惟神の道こそが森羅万象の根源であるとする吉田神道を大成させました。江戸時代には吉田神道は神道界に君臨し、全国の神社の総帥の地位を占めるようになりました。

 

 

 

吉田神社の節分祭は毎年2月2日から2月4日にかけて行われます。その中で仮面を使用するのは2月2日の夜に行われる追儺式)(ついなしき)と呼ばれる儀式で、俗に「鬼やらい」と呼ばれています。一つ目ならぬ黄金の四つ目を持つ赤い仮面を被り黒衣と朱裳を着装した方相氏が、侲子(しんし)という小童を多数従え、「のう!のう!」と大声を発し3度矛で盾を打ち、怒りを表す赤鬼、悲しみを表す青鬼、苦悩を表す黄鬼を追いかけ舞殿を巡ります。最後に上卿以下殿上人が桃弓で葦矢を放ち、疫鬼を追い払います。一年の最後の季節である冬の最終日に災厄のシンボルとしての鬼を祓う厄除けの意味があるとされています。

 

 

追儺式の様子です。吉田神社の公式サイトにアップされている写真を、ご了解を得て使用させていただきました。深く感謝申し上げます。右が方相氏です。見た目鬼よりも怖いです。

 

デジタル大辞泉によると、「儺」という字そのものが、 「疫鬼を追い払う行事」という意味を持っていますが、儺文化のルーツは大変古く、大辺璃紗季氏は『方相氏&追儺式)年表』にて、「紀元前20世紀から紀元前17世紀の中国において、儺に類する儀式が行われていたとされる記載が『世本』や『太平御覧』に見られる」と述べています。また、丁武軍氏の「古儺文化の起源・変遷・現状1― 中国南豊と京都を事例として―」には、「紀元前16~8世紀の殷、周時代に成立した」と書かれています。

 

日本で初めて儺の記録が登場するのは8世紀はじめです。Alexandre GRAS氏の「儺祭詞にみえる疫鬼に対する呪的作用について(その1)」には、「 『続日本紀』によると文武天皇(697~707)の頃の慶雲3(706)年の条にある。人民が多数死亡したので初めて土牛 を作って、大儺を行なったと記されている。 」と書かれています。ここでは、方相氏は登場せず、土牛(土製の牛の像)によって儺を行ったようです。一方、儺の儀式とは別に方相氏が日本に伝っていたと考えられています。『元興寺縁起』によると、593年に、蘇我馬子の邸宅から仏舎利を法興寺に送る儀礼に、方相氏が登場したことが書かれているのです。その後821年に成立した『内裏式』の「十二月大儺式」では方相氏のことが記されるようになり、浜本隆志氏の編著書『異界が口を開けるとき-来訪神のコスモロジー-』(関西大学出版部)に、「方相はひとり、大舎人のなかから長大なものを選んで、その役をさせる。黄金四つ目の仮面をつけて、黒い衣に赤い裳裾を着て、右手に戈をもち、左手に楯をもつ。」と紹介されています。しかし、ここでも目に見える鬼は登場しません。ちなみに、この時代の鬼の登場しない大儺式を猪熊兼繁京都大学名誉教授が再現し、「大儺之儀」として昭和49年から毎年2月3日に平安神宮で行われています。

 

平安時代になると、「大儺」が「追儺」と呼ばれるようになり、方相氏の役割にも変化が生じてきます。鬼を追う役割を担っていた方相氏が追われる鬼の役割を負わされるようになるのです。『方相氏&追儺式年表』によると、10世紀に源高明が書いた『西宮記』には追式の詳しい様子が記載され、方相氏が追われる形で行われていると指摘されています。また、11世紀末に藤原資房が書いた『春記』に、方相氏が弓で射られる記録が初見されるとのことです。この役割の変化について、森貴史氏は『異界が口を開けるとき』の中で、「邪鬼・悪鬼を追い払うべき威嚇のためであった善神方相氏の怪異な外見が、鬼との同一化をもたらしたのであろう。」と推察しています。 「夜蠢く」②や「タマミフル」のところで、同じ姿をしていても、時に神の眷属となったり、邪悪な妖怪となったりすることがあると述べましたが、方相氏においても、善と悪の逆転現象が見られていることになります。

 

室町時代以降、宮中での追式は次第に廃れていきます。一方民間では節分の行事が広がっていき、吉田神社の節分祭も室町時代まで遡ることが出来るようです(方相氏が登場する追式は当時行われていなかったようですが・・・)。「切断」のところで書いたように、 節分の豆まきは深泥池が発祥の地であるとも言われています。 ただ、元をたどれば、節分の風習は追儺に起源があるようです。国際日本文化研究センター所長の小松和彦氏は『仏教行事歳時記 2月 節分』(第一法規)の中で、追儺の儀礼が民間にも流布して節分の行事になったという説と、いったん仏教の修正会や修二会に取り込まれた追儺の儀礼がさらに民間にも流布したという二つの説を紹介していますが、何れにしても追儺と関係していることは確かなようです。

 

『方相氏&追儺式)年表』によると、吉田神社の節分祭で方相氏が登場する追式が行われるようになったのは、1919年(大正8年)になってからで、歴史家・風俗史家の江馬務が鬼の登場しない古式に則った形式で復元しました。

 

 

写真は1928年(昭和3年)作『都年中行事画帳』(詞書:江馬 務、画:中島 荘陽、国際日本文化研究センター蔵)に収録されている吉田神社追儺式の様子を描いた画です。国際日本文化研究センター様のご許可をいただき、 大辺璃紗季氏が主催されている「妖怪卸河岸」公式サイトからダウンロードさせていただきました。心より感謝申し上げます。この画にはまだ鬼は登場していませが、詞書に「近年、祭りに鬼を加えた」とあり、大正末期から昭和初期に、ほぼ現在の形になったと推察されます。


最後に方相氏の仮面について書きますが、何と言っても最大の特徴はその異様な黄金の四つの目です。森貴史氏は『異界が口を開けるとき』の中で、「方相氏は四方にいる鬼を祓うのであるが、この四方に対応するために四方向分の目がついている」という中村保雄氏の説を紹介しています。またこのような異様な造形が、見ている人々に神性、恐怖、畏怖のような特異な感情を抱かせ、仮面を着ける人に神が憑依したと思わせる効果があるとしています。「忘却と追憶」で描かれた一つ目で銀色という異様な造形の<忘却の面>にもやはりそのような心理的効果があり、仮面を着けた人に忘却をもたらすのかもしれませんね。

 

私事で恐縮ですが、私自身、幼少期に親に連れられ、何度か吉田神社の追式を見ているはずです。しかし、参道の屋台で綿菓子を買ってもらった記憶はあるのですが、子供が一度見たらトラウマになり忘れるはずがない方相氏の形相について何も覚えていません。ひょっとすると方相氏の仮面にも忘却をもたらす力が備わっている・・・ような気がしますが違うのかもしれません。

 

今回ブログを書くにあたり、「妖怪卸河岸」主催大辺璃紗季様から大変詳細なご教示をいただきました。心より御礼申し上げます。