「タマミフル」 | 京都市某区深泥丘界隈

京都市某区深泥丘界隈

綾辻行人原作『深泥丘奇談』の舞台、京都市某区深泥丘界隈を紹介します。内容は筆者個人の恣意的な感想に過ぎず、原作者や出版社とは関係ありません。

「タマミフル」は、主人公の「私」が自宅の庭を猿の群れに占拠され、その中に奇妙な笑い声を発する子供の姿を目撃するお話です。猿といえば、「声」のところで赤山禅院の猿について書きましたが、「タマミフル」と「声」はいくつかの共通点を持っています。タマミフルというインフルエンザの薬も、「声」に登場していました。「私」の家の庭に奇妙な声を発する得体の知れない何かが侵入してくるという設定もよく似ています。ということで、今回も猿について書いてみたいと思います。

 

赤山禅院の猿が、鬼を追い払う役目を担う神の眷族であるということを、「声」のところで書きました。一方、「夜蠢く」②のところで、同じ姿をしていても、時に神の眷属となったり、邪悪な妖怪となったりすることがあると述べました。実際、赤山禅院の猿も夜な夜な遊び歩くようになり、檻に閉じ込められています。場合によっては人間を襲ったりすることもあったのかもしれませんね。

 

では、邪悪な妖怪としての猿については、どのような伝説があるでしょう? 多田克己氏の著書 『幻想世界の住人たち IV 日本編』 (新紀元文庫)には、背丈が3mほどもあり、高い知能を持ちながら凶暴で、笑いながら人を喰べる狒狒という妖怪が紹介されています。その笑い声からヒヒと名付けられたそうです。

 

猿そのものの姿をしているわけではありませんが、横溝正史の『悪霊島』に登場する猿の顔を持つ妖怪・鵺はミステリーファンにはお馴染みかと思います。綾辻先生も、新本格30周年記念アンソロジー『7人の名探偵』(講談社)に「仮題・ぬえの密室」を書き下ろしておられ、しかもその内容が『深泥丘シリーズ』ともリンクしてします。その名前こそ明記されていないものの、シリーズの中で何度も鵺を連想させる記述があり、極めて重要な存在である・・・ような気がします。

 

鵺が登場する最も古い資料は、『平家物語』で、「近衛天皇在位の時、夜な夜な東三条の森の方から黒い雲が立ち上って御所の上を覆い悩まされたため、源頼政に退治するよう命じたところ、頼政は雲の中にあやしきものを見つけこれを射落し、部下の井早太が刀でとどめを刺した」ことが書かれています。その外見については、「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは(ヘビ)、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりけり。」(覚一本)と描かれています。ここではまだ、この妖怪に「鵺」という名前は付いておらず、トラツグミのことである鵼の声に似ているという記載に止まっています。『平家物語』は覚一本以外に異種本が数多く存在し、それそれ鵺の描かれ方が微妙に異なっており、その一つである『源平盛衰記』では「頭は猿背は虎尾は狐足は狸 」と描かれていますが、「頭が猿」という点では共通しているようです。

 

ここで注意しておきたいことは、『平家物語』において、鵺のエピソードは頼政の側から描かれていて、頼政の武勇伝として紹介されているわけですが、決して頼政が英雄視されているわけではありません。以仁王を奉じて挙兵したものの、宇治川において平氏に敗れ、「太刀のさきを腹につき立て、うつぶッさまにつらぬかッてぞ失せられける。」と壮絶な最期を遂げた武将として描かれています。その悲劇性を際立たせるため、過去の栄光を引き合いに出したのだと思われます。

 

時代は下り、世阿弥は、頼政の霊をシテとし、よりいっそう彼の悲哀に焦点を当てた謡曲『頼政』を書きました。また、往生できずに海に漂う鵺の苦悶を描いた謡曲『鵺』も同じく世阿弥最晩年の作とされています。『鵺』が世阿弥の作であるとすると、足利三代将軍義満に寵愛を受け栄華を極めたにもかかわらず、六代将軍義教に疎まれ佐渡に流された自分の境遇と、権力によって葬られ往生できず彷徨う鵺、さらにはその鵺を退治し脚光を浴びるも結局は敗者として最期を迎えることになった頼政を重ね合わせていた・・・ような気がします。

 

ところで、鵺が出没した東三条の森は、一般には藤原氏の邸である東三条院といわれています。現在の西洞院二条付近にありました。邸内西北に社があり森となっていたそうです。しかし、ここは平安京のど真ん中で、内裏までの最短直線距離はわずか600mです。しかも有力貴族の邸で、鵺に悩まされた近衛天皇自身がここで元服を行っています。妖怪が出没する場所としてはそぐわない・・・ような気がするのですが・・・。*

 

 
写真は岡崎公園グラウンドです。深泥丘界隈よりも少し南になりますが、京都市某区です。かつてここに鵺塚というものがあったそうです。発掘調査の結果鵺塚は古墳であることが解り、鵺との関係性は不明とのことですが、平安京からは離れており、鵺が出没する場所としては相応しい・・・ような気がします。ちなみに、左上に写っている緑色の屋根の建物は桓武天皇を祀る平安神宮応天門です。

 

 
写真は大将軍神社です。 岡崎グラウンドの南西750mのところにあります。平安遷都の際に、桓武天皇が王城鎮護のために都の四方四隅に祭祀した大将軍神社の一つです。東三条ならぬ東山三条交差点の近くにあります。ここにも東三条殿と呼ばれた藤原氏の邸があり、ここにあった森も鵺の森と呼ばれていたそうです。

 

 

 
残念なことに、8月24日の台風の影響で拝殿が倒壊してしまいました。

 

 

 
写真は下京区にある神明神社です。 鵺退治の命を受けた頼政がここでに成功祈願をしました。退治に使用した弓矢の鏃2本が宝物として伝わっています。

 

 

 

 

上の写真は二条城の北側、二条児童公園の中にある鵺池です。頼政が鵺を射た血のついた鏃を洗った池の跡だと伝承されています。

 

 

 

 

公園脇には鵺大明神を祀る祠があります。

 

京都市某区に住んでいる筆者としては、希望も込めて東三条の森は岡崎公園グラウンドの場所であって欲しいと思います。先ほども書いたように、ここには平安神宮が隣接しています。平安神宮は1895年平安遷都1100年を記念して、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀されました。桓武天皇は平安遷都という大事業を行っただけではなく、遣唐使1回、遣渤海使3回、遣新羅使1回を派遣するなど積極外交を展開し、その後の文化・芸術・学問・宗教等の発展に大きく寄与しました。京都に住んでいる一員として私もその恩恵を享受していると言えます。この政策は、桓武天皇の母方が百済王の子孫であることも理由の一つと言われています。

 

その光があまりに強い一方、大きな影も残しました。藤原種継暗殺事件に関わった人々に対して苛烈な処分を行い、弟である早良親王にも疑いをかけ流罪としますが、親王は無罪を主張し食を断ち薨去し怨霊となります。また、 3度にわたる蝦夷征討を敢行し弾圧を行いました。もちろん、長岡京と平安京の2度にわたる遷都と蝦夷征討は一般民衆への大きな負担となりました。

 

鵺は、平安時代における、政治的敗者の怨念や、弾圧された人々の悲哀や、一般民衆の苦悩の象徴である・・・ような気がします。平安時代の最高権力者を祀る平安神宮と、かつて鵺塚があった場所が隣接していることは、偶然とはいえ感慨深いものがあります。この光と影、表と裏のコントラストが京都の魅力の一つなのではないでしょうか?

 

*このブログをアップした後、小松和彦氏の『呪いと日本人』を読了しました。社会的な地位が上昇するほど権力が増すほど、それまでに蹴落とし葬り去ってきた人々の怨念に取り囲まれるようになり、内裏や貴族の邸に物の怪や鬼が集まってくると述べています。鵺が出没した場所が東三条院とすると、藤原氏への怨念が鵺を生んだのかもしれませんね。ちなみに、近衛天皇の母親は藤原北家出身の藤原得子です。