石川くんのドロドロ地獄

石川くんのドロドロ地獄

映画と音楽と本をドロドロ…

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僕が最も嫌いなミュージシャンに、ジョン・レノンという野郎が居る。


このすっとぼけ天パーメガネ野郎は、ビートルズだかズートルビだかいう

バンドを組んで、ロックとポップの産業化にまい進した挙句、

子供が生まれた途端(オヤジより子供の方が才能ある気がするぜ)

商売と化した音楽産業に嫌気が指して、

おれっち主夫になるんだ~い☆

などとのたまわった挙句、LSDにどっぷり浸かって軽井沢でフランスパンなんて

かじっとった、ロッカーの風上にも置けん野郎である。



この精神童貞野郎の最大の犯罪は、あの曲を作ったところにある。


天国も地獄もないよ~ん

宗教なんてないよ~ん

人類皆兄弟なんだよ~ん

だから皆で分け合うことを覚えようよ~ん


などと、中学生の卒業論文か、中小企業の朝礼におけるハゲ社長の訓示の

ようなことを、女々しいったらありゃしねえビブラートで歌い上げるのだ。


イマジン。



次に僕が嫌いなミュージシャンに、カート・コバーンという野郎が居る。


この甘ったれプリンちゃんは、(なんだそれ)

アバンギャルドやカウンターカルチャーとして、グランジの成立に寄与したまでは

良かったものの、自分が売れっ子ミュージシャンになった途端、

あれ?なんか思ってたのと違う…などと新卒社員3か月目の様なことを

言いだして、挙句自分の頭をショットガンでハンバーグにしちゃった、

プリンどころかイチゴ大福を凌ぐスーパー甘ったれちゃんである。


死ぬ前に一度自衛隊にぶち込んで、根性叩き直してやりたかったものだ。



レノンもカートにも思うことは、君たち戦っているのかい?という

ことだ。


俺?

俺は戦っている。


大時代的な表現に逃げたレノンや、自殺に逃げたカートみたいには

ならないように、俺は戦っとるのだ。


なにと?


ズレと。

である。



10年近く認めたくなかったんであるが、どうやら僕はズレてるくさいのだ。


認めたくなかった。

でもそろそろ逃げられないようだ。


俺ちょっとズレてる!!!!


AKBが大好きな友人が、前田のあっちゃんのことをやたらと語っていたので、

あーあの新幹線に似てる子でしょ?

と言ったらビックリする位怒られてしまった。


僕の中では、ふかわりょうの、

おまえんち、天井低いな。

に次ぐ名言であったのだけど、友人曰く、

あっちゃん=新幹線の感覚は誰も共感できない、とのこと。


いかんなあ、と思う。


多少のズレは個々あって良いとは思うものの、コミュニケーション不全を起こす

ズレは、大人としてちょっとイカンと思う。


ズレと戦わなくてはならない


とはいえ、僕個人の感覚であるのだから、矯正で周囲に合わせることなんて、

したくないし出来ないと思うのだ。


感覚の相違を楽しめたら、最高だ。



映画を見ていると、作品本来の持ち味をよそに、「感覚の相違」で

楽しくなっちゃうことがよくある。


先日も、『ラストエンペラー』を見ていたら、坂本竜一がいきなり出てきたんで、

内臓が飛び散るくらい爆笑してしまった。


教授、ビックリする位役にハマってねーんである。


『ラストエンペラー』、スタッフの多くはイタリア人のようで、妙に

納得。


辛亥革命以前の中国王朝の役人が全員英語をペラペラしゃべっとる辺り、

なんか笑えてしまって困った。


だってまだ若き皇帝陛下が、

「大人になったら英語とフランス語と日本語を喋れるようになるんだい!」

と、スーパー流ちょうな英語で喋ってんのである。


製作スタッフ総出でボケにきとるのかこの映画は?


まあでもこの辺の感覚は、我ながらかなり意地が悪いとは思う。

『ジャンヌダルク』でもミラジョボビッチがペラペラ英語喋ってたしなー。


ちょっとちっちゃいことを気にし過ぎな気もするけれど、

イタリア映画っつったらアバンギャルドなのか天然なのかさっぱり分からない

感性の飛ばしっぷりが魅力なのであるからして、

「中国最後の皇帝」というソリッドなテーマを扱いながらも、ポカポカした

ボケ感が漂う『ラストエンペラー』はやっぱり名作である。



『ぼくのエリ』も、ズレた面白さがある。


フィンランドの少年と、ヴァンパイアの少女との交流を描いて、

『小さな恋のメロディ』と『アンダーワールド』を足して2で割った

様なこの映画、僕の趣味には溜まらんのだけど、

映画全編、ヴァンパイア少女・エリの父である老ヴァンパイアが

ひたっすらにボケ倒しとるんである。


人間社会で生きるエリと老ヴァンパイアは、大っぴらに人間の血に

ありつけることが出来ない。


だからエリは常に腹を空かしているのだけど,

血液調達係の老ヴァンパイアが、まあー仕事が出来ないんである。


エリのために人間の生き血を探して回るのだけど、いちいちつまんねー

ことで失敗するんであるこのおっさん。


1 散歩中の犬に見つかって失敗!

2 血液調達用の器材がデカすぎて失敗!

3 テンパって失敗!


もうバラエティ企画で初めてバイト経験をするセレブタレントよりも

使えねーんであるこの人


人間社会に淘汰されて、不器用に滅んでいく年老いたヴァンパイア

という見方も出来ないこともないんだけれども、なんかもうちょい

うまくやれよアンタ。



感覚のズレは楽しい。


僕が間違っているのかもしれないし、相手が間違っているのかも

知れない。


だけど、お互い共感できないところをこすりあえば、意外な面白みを

発見できたりする。



ただ、ズレがコミュニケーション不全を生むのは確かだし、

摩擦があるから人と分かり合えず、孤独も生む。


でも摩擦を覚悟して、お互いをこすり合わせた時に、なんとも言えない

面白みを生むことも確かだ。



だからカートも、生きて新しいアルバムを作ってほしかった。


彼の盟友ビリー・コーガンが、新譜を出したりバンドを再結成させる度に

「恥をさらすな」「カートの様に90年代に死んでりゃ伝説になれた」

と叩かれているけれど、生きるってことはそういうことだと思うんだが、

どうかな?カート。




最近涙もろくって困る。


おっさんに近付いている証拠か、もう涙腺が、

ユルッユルなんである。


ここ2年くらいはほんとーに酷い。



もう、映画見ちゃテレビ見ちゃちょっといい話聞きゃ、

柴田理恵か俺かってくらい泣いている。


『私の中のあなた』を見た時はひどいもので、涙で字幕が

見えやしない。

(でも泣く。)


『ハガネの女』も、キツイものがある。

もう毎週毎週泣けて困る。

チビッ子天才子役たちがこれでもかってくらい泣きの

演技で魅せるもんだから、涙腺への獄門だよありゃ。



ひどい時は『GANTS』で泣けた。


登場人物の一人が、鼻血ブーで死んでいくシーンで、

なんかもう「そうだよな!熱く生きるべきだよな人って!!」

みたいなスイッチが入ってしまい、朝方の満喫で、鼻水グッシャグシャ

である。


この話を地元の親友にしたところ、神経科に行くように

勧められて困ったもんである。



先日も、困った。


『キャリー』を見たところ、なんだか泣けてきてしょうがなかった。



ジャンルはホラー。

原作はスティーブン・キング。

聞くところによると、『エクソシスト』と並べられる、

70年代ホラーの代表作の一つらしい。


では僕が白目剥き出しで、首の関節バキバキのスパイダーウォークで

号泣をぶちかましたのかというと、そうではない。

(そりゃそうだ。)


『キャリー』の主人公に、共感してしまったら、泣けてしょうがなかったのだ。



主人公キャリーは、高校3年生。

キャリーは暗い。

詩心もあり、若干不思議ちゃん要素を持ちつつ、

コミュニケーションがド下手クソのキャリーちゃん。


要するに、いじめられっ子なんである。


しかし、いじめられっ子キャリーちゃんは、みんなと

違っていた。


超能力を持っているのである。

(まあまあ落ち着いて。)


念じるだけで、物を動かすことが出来るのである。

(すいません。失笑せんといてください。)


キャリーちゃんのクラスメイトへの怒りは、卒業パーティにおいて

頂点に達する。


地味だけど素材がいいキャリーちゃんは、矢沢あい漫画的に美少女へ

変貌へ遂げるものの、クラスの1軍(ジョン・トラボルタ!!何やってんだあんた!)

のイタズラによって、豚の血ドッキリに引っかけられてしまう。


沸点に達するキャリーの怒り!

解放された能力!



能力を全開放にしたキャリーは、テレキネシスによって、

卒業パーティ会場は血と炎の海と化し、彼女はクラスメイト、

先公どもを、皆殺しにするのだった…。


っていう物語で涙と鼻水がハンパ無くて、ティッシュを15枚は

使っちゃいましたよ僕。


まったく環境に厳しい映画もあったもんである。



キャリーちゃんに、何故か異常なシンパシーを感じてしまう。



「クラスメイト・先公・校長に至るまで皆殺し」


これは、暗黒の青春を潜った誰もが経験する、ひとつのあるあるだと、

僕は考えている。


greeeenの『キセキ』のような青春もあろう

尾崎の『15の夜』のような青春もあろう


しかしごく少数、『キャリー』のような青春も、この世には

存在しているのである。


「ねえよそんな青春!」と言い放つ向きは、大概がペラッペラな青春時代を送り、

週3で通う和民で、男のくせにサラ・ジェシカ・パーカーそっくりのバカヅラで、

「愛とは自由とは!」的トークを繰り広げるスカスカ野郎であるに違いないので、

捨て置く。


要するに、青春とは全てが光ではない。


考える力や表現力や爆発力、それらのパワーがいずれの世代よりも

勝っているだけに、(そしてその方向性が往々にしてすっとぼけているために)

青春の闇は、更に濃いのである。


もっと具体的に述べるならば、自我が表面張力最大までに膨張しきった、

非常に危うい状態で日常をフラフラしとるような時期だと思うのだ。

青春とは。


俺すげえ!

俺こんなこと考えてる!

俺こんなことしてる!

俺すげえ!!


青春の闇は、全てここからやって来る。


皆に相手にされたい。

皆に自己を認めてもらいたい。


ただし、そいつが上戸彩の彼氏かベッキーの幼馴染でもない限り、

そいつは満足することはないのだ。


本当は皆そいつのことを認めているのに、

俺の自己を!自我を!みたいな太宰の出来損ないの様な

自己顕示欲があるばかりに、周りが自分を認めていない、

自分と周りは違う、と認識してしまうのである。


つまり、キャリー的青春とは一概に、いじめられっ子の青春ではない。

キングもツメが甘いぜ。

暗黒の青春は、決していじめられっ子だけに宿るものではない。



僕はキャリー的青春を送た人間のことを、

アメリカで起きた銃乱射事件から取って

【コロンバイン型人間】

と呼んでいる。


キャリーは、コロンバイン人間が夢む理想を、

全て詰め込んだ映画なのだ。



断言する。

【コロンバイン型人間】的高校生活を送った人間は、

実に多いと思う。


100人集めたら35人は確実に居るはずだ。


言うなれば、日本人の3割が、コロンバイン銃乱射事件の犯人と

全く同じ発想を持っているのである。

(やんねーけどね。あんなこと)


あの事件が起きた時、理屈ではなく感情で、犯人の高校生に

共感した人は、実は結構居ると思うのだ。


「なんでこんな事件が!?」

じゃなく、

「とうとうやったか!!」

と考えた人は結構多いと思うのだ。


軍事オタクでマンソンフリークの高校生なんて、

コロンバイン型思考の代表的な特徴とすら言える。


平凡で、そして自己を認めないクラスメイト達を、

彼らは毎日毎日ムカついて仕方なかったはずだ。


ひじょーーーーーに分かる。


僕も全く同じである。


『死霊のはらわた』や『シベリア超特急』や『銀河』なんかを観ては

偉くなった気になり、岩井俊二なんかを語る一軍系男子に殺意を

燃やしていた。


マイナーな、通好みの映画を観ては、自分が偉くなったようで、

それでもクラスで「スゴイ」と言われない状況に腹が立っていた。



…字面で書いてみてビックリした。

当たり前である。

なんで『シベ超』見てたらクラスメイトに尊敬されるのだ?

水野晴朗への信頼が篤すぎである。ティーンの俺。


閑話休題



しかし、まあ自我が肥大化している高校生の発想なんてそんなもんである。


自分は特別であり、この特別ではない(と勝手に思ってる)クラスメイトや

教師陣に勝手にムカつくのである。


そしていつの間にか、コロンバイン型人間の胸には、

「全部ぶっ壊してやりたい」という欲求が根付くのだ。

 


しかし、殆どのコロンバイン型高校生たちは、それをしない。


あらゆる同級生たちが青春を謳歌していく中で、

コロンバイン型高校生たちは国語の教科書に

中原中也詩集とかブコウスキー短編集なんかを隠して、

もの思ってるはずなのだ。



部活・友情・修学旅行や文化祭。


そんなことには目もくれず、ひたすら己の闇を深くすることに

没頭する人種、というものが、この世には存在しているのだ。



僕がそうだったから分かるのだけど、コロンバイン型生徒は

打率7割の確立で教師から嫌われる。


というか煙たがれる。


そりゃそうだ。


獲物を狙うネコの様な目つきで奴らは、一番身近な大人である

教師を見ている。


精査している。


隣の高校のヤンキー君を半殺しにする悪男くんをハグする体育教師でさえ、

コロンバイン型生徒を忌避する傾向が高い。



だから僕は常々思う。



そんな頭の弱い教師の言うことなど、聞かなくてよい。


クラスの半数が好むカラオケソングの歌詞を暗記する必要などない。


ベッキー的立ち位置のやや良しのクラスメイトに、文化祭前日に

何で心をひとつにしてくれないの!?

と泣かれても、

お前ホームベースみてえな顔だな。

と言ってやればよい。




自由に生きればいいと思うのだ。


心を閉じろ!!

焦ろ!!

怒れ!!



5年はしんどい時期が続くけれど、5年後、ものすんごい楽しいよ~




未成年凶悪事件を防ぐ方法は簡単。


コロンバイン型高校生たちを野に放てばよい。

人類の最も巨大な発明は、宗教である。

という言葉がある。



あらゆる生物の中で、死を知ってしまったのは人類だ。


自分がいつか跡形もなく消え去って消滅してしまうことを、

人間だけは知ってしまった。



生と死の担保、それが宗教である。


アニミズムを原始宗教とし、農耕や狩猟の論理化を達成した

宗教はやがて、死後の存在を保証し、生きる苦しみから人を

解放しようとする。


キリストは天国の存在を保証したし、仏教は生きることを

苦しむことと考えて、輪廻転生の輪から脱出するために、

涅槃の理論を考え出した。



キリスト教も仏教もヒンドゥー教もブードゥー教も、共通した

世界を作り出した。



地獄だ。



キリスト教でも仏教でもヒンドゥー教でもブードゥー教でも、

僕は思う。



俺ぜってーーー地獄行きだよもーーーう(ノ◇≦。)



すんげー面白い本を手に入れてしまったのである。


『怪奇探偵小説集』


だ。


まったく、なんともありがたみの感じないアンソロジーがこの世には

あったもんである。


知の集積である書物を以てして、くだらなさをビシバシ放つこの

アンソロジー。

私は目についた瞬間心をベアーナックルされてしまったんである。



僕は読書の遍歴は、もうアホかってくらいの偏食なんである。


夏目漱石がある日やってきて、武藤を凌ぐシャイニングウィザードの

キレを以てして僕に天誅を下しても、ひとっつも文句が言えないのである。



『ドグラマグラ』のあらすじを200字以内にまとめるなど朝飯前だ。

古本市で買った『阿部定自白調書』にはボーダーラインが引きまくってある。



余談ですが、阿部定の言葉のセンスはすご過ぎ!!! 

冗談ではなく、初めて読んだ時、言葉の世界観に完全にやられた。

天然でやっているのだから、あの人は本物の天才だったんじゃないだろうか。

じゃなきゃあんな事件おこさねーわな。



閑話休題


『怪奇探偵小説集』、そもそも目次からして痺れる。


『声に出したい日本語』かと思ったよ俺は。


NHKホールで5000人くらい客入れて仲間由紀恵(バックに坂本竜一待機)

なんかに読ませてみたいタイトルがぎっちぎちなんである。



ざくっと見るとこんな感じだ。


『悪魔の舌』!

(のっけからこれである)


『赤い首の絵』!

(言葉のワクワク度は「イチゴ大福」レベル)


『幻のメリーゴーラウンド』!

(下北系インディバンドのアルバムタイトルじゃないのがすごい)


『喉』!

(いや、いきなり「喉」と気持ちよく言い切られましても…)


『蛞蝓妄想譜』!

(読めない)


『生きている皮膚』!

(クリムゾンの新譜です。って言ったら何人信じるかしら)


『飛び出す悪魔』!

(さくらももこですかあなた?)


いやーーー声に出して読みたいor読ませたい!!!


仲間由紀恵がダメならクリス・ペプラー発注でも全く構わないよ俺は!!


まぁーー趣味の悪い話達である。

だから僕も趣味が最低なんである。



この世ならざる話が、僕は大好きだ。

狂気とか怪奇とか、ぐっちょぐちょのお話を探して回っている。


はっきりと最低な趣味だと、自覚はある。


人の心の奥深く、理屈や情緒を超越したレベルの話を読んで

ヘラヘラしとるんである。


地獄行きっすよほんとに。


しかしまあある種のイ○ポというか、ガワも文章もおしゃれな本は

今一つピンと来ない。

(そのくせ『ご近所物語』読んで号泣してるんだからどうしようもない。)



話を『怪奇~』に戻すと、大正から戦中までの怪奇小説を、

アンソロジーを行った鮎川哲也は切々と収集する。


乱歩や木下宇駝留辺りの大御所から、無名時代の井上靖なんかも

名前を連ねている。


または無名の作家まで。


『蛭』の作者、南沢十七に対し、鮎川先生、こう来る。


経歴不詳。


超クール!!!


経歴負不詳の作家がごっそり名前を連ねているところがまた怪しい。

そそられる。


何言ってんだあんた?みたいな作家が居ない訳ではないけれど、

乱歩と見劣りしない傑作を生み出した無名作家の作品を逃さない

辺り、この本は価値がすごく高いと思うのだ。


いい作品を生み出していれば、全く無名だろうが関係ねーぜ

という鮎川先生の姿勢には、ほんとーに共感するし、尊敬する。


乱歩を抑えてアンソロジー一発目を飾る村山槐太からして、

経歴不詳作家なんであるが、読んでみれば分かる。


売れてるとか名前ってかんけーないよ!!


村山の『悪魔の舌』、いわゆる食人の話なんですが(まあまあ落ち着いて)

「悪魔の舌」を手に入れた男が、究極の美食を求めて、ついに

食人に至るというお話。


もう「悪魔の舌を手に入れた」なんつー発想の時点で友達になりたい度が

ハンパ無いんであるが、究極の美食に至るまでの過程が完璧で、

壁とか土とか食っちゃうのだこの人ったら。


『美味しんぼ』で海原先生が叫ぶ、

「鍋物は素材の持ち味を殺すのだと何度言ったら分かるのぢゃ!!」

みたいな過程をすっ飛ばして紙とかカエルさんを延々食ってる描写は、

おかしいのは舌じゃなくてお前のオツムの方じゃい!!

と突っ込まざるを得ない。

(誉めてるんですよ)


タイトルがさっぱり読めない『蛞蝓妄想譜』なんかは、

(「ナメクジもうそうふ」って読むらしいっすよ。どうやら。)

もっとすっ飛ぶ。


ヒロポン合法時代の当時の日本がよく分かる資料価値としても

相当貴重な一篇だと思うし、「ラリッちゃてる人」を描いてこんなに

ゾッとする話もそうはない。


「ドラッグ文学」なんてジャンルが確立している現在であるから、

素材としては新鮮味も感じないと思いきやとんでもなかった。


ポン中患者の脅迫観念がまずおっかないし、

(中島らもより怖いってどういうことよ)

ラリラリ描写を執拗にナメクジに例える作者の潮寒二の感性が怖い。


実は潮先生がポン中なのでは?と疑わずにはいられない。


「ドラッグ」という観念が成立していない当時だから書けた傑作だと

思う。



まだまだあるけど、書いていたらキリがない。



いい本見つけてホクホクもんなんであるが、

死んだ後にエンマ様に、

「趣味がわりーからお前地獄行ね」

などといわれるのも考えもんであるね。