実際ベッキーが同じクラスだったらすげえ気を遣う | 石川くんのドロドロ地獄

石川くんのドロドロ地獄

映画と音楽と本をドロドロ…

最近涙もろくって困る。


おっさんに近付いている証拠か、もう涙腺が、

ユルッユルなんである。


ここ2年くらいはほんとーに酷い。



もう、映画見ちゃテレビ見ちゃちょっといい話聞きゃ、

柴田理恵か俺かってくらい泣いている。


『私の中のあなた』を見た時はひどいもので、涙で字幕が

見えやしない。

(でも泣く。)


『ハガネの女』も、キツイものがある。

もう毎週毎週泣けて困る。

チビッ子天才子役たちがこれでもかってくらい泣きの

演技で魅せるもんだから、涙腺への獄門だよありゃ。



ひどい時は『GANTS』で泣けた。


登場人物の一人が、鼻血ブーで死んでいくシーンで、

なんかもう「そうだよな!熱く生きるべきだよな人って!!」

みたいなスイッチが入ってしまい、朝方の満喫で、鼻水グッシャグシャ

である。


この話を地元の親友にしたところ、神経科に行くように

勧められて困ったもんである。



先日も、困った。


『キャリー』を見たところ、なんだか泣けてきてしょうがなかった。



ジャンルはホラー。

原作はスティーブン・キング。

聞くところによると、『エクソシスト』と並べられる、

70年代ホラーの代表作の一つらしい。


では僕が白目剥き出しで、首の関節バキバキのスパイダーウォークで

号泣をぶちかましたのかというと、そうではない。

(そりゃそうだ。)


『キャリー』の主人公に、共感してしまったら、泣けてしょうがなかったのだ。



主人公キャリーは、高校3年生。

キャリーは暗い。

詩心もあり、若干不思議ちゃん要素を持ちつつ、

コミュニケーションがド下手クソのキャリーちゃん。


要するに、いじめられっ子なんである。


しかし、いじめられっ子キャリーちゃんは、みんなと

違っていた。


超能力を持っているのである。

(まあまあ落ち着いて。)


念じるだけで、物を動かすことが出来るのである。

(すいません。失笑せんといてください。)


キャリーちゃんのクラスメイトへの怒りは、卒業パーティにおいて

頂点に達する。


地味だけど素材がいいキャリーちゃんは、矢沢あい漫画的に美少女へ

変貌へ遂げるものの、クラスの1軍(ジョン・トラボルタ!!何やってんだあんた!)

のイタズラによって、豚の血ドッキリに引っかけられてしまう。


沸点に達するキャリーの怒り!

解放された能力!



能力を全開放にしたキャリーは、テレキネシスによって、

卒業パーティ会場は血と炎の海と化し、彼女はクラスメイト、

先公どもを、皆殺しにするのだった…。


っていう物語で涙と鼻水がハンパ無くて、ティッシュを15枚は

使っちゃいましたよ僕。


まったく環境に厳しい映画もあったもんである。



キャリーちゃんに、何故か異常なシンパシーを感じてしまう。



「クラスメイト・先公・校長に至るまで皆殺し」


これは、暗黒の青春を潜った誰もが経験する、ひとつのあるあるだと、

僕は考えている。


greeeenの『キセキ』のような青春もあろう

尾崎の『15の夜』のような青春もあろう


しかしごく少数、『キャリー』のような青春も、この世には

存在しているのである。


「ねえよそんな青春!」と言い放つ向きは、大概がペラッペラな青春時代を送り、

週3で通う和民で、男のくせにサラ・ジェシカ・パーカーそっくりのバカヅラで、

「愛とは自由とは!」的トークを繰り広げるスカスカ野郎であるに違いないので、

捨て置く。


要するに、青春とは全てが光ではない。


考える力や表現力や爆発力、それらのパワーがいずれの世代よりも

勝っているだけに、(そしてその方向性が往々にしてすっとぼけているために)

青春の闇は、更に濃いのである。


もっと具体的に述べるならば、自我が表面張力最大までに膨張しきった、

非常に危うい状態で日常をフラフラしとるような時期だと思うのだ。

青春とは。


俺すげえ!

俺こんなこと考えてる!

俺こんなことしてる!

俺すげえ!!


青春の闇は、全てここからやって来る。


皆に相手にされたい。

皆に自己を認めてもらいたい。


ただし、そいつが上戸彩の彼氏かベッキーの幼馴染でもない限り、

そいつは満足することはないのだ。


本当は皆そいつのことを認めているのに、

俺の自己を!自我を!みたいな太宰の出来損ないの様な

自己顕示欲があるばかりに、周りが自分を認めていない、

自分と周りは違う、と認識してしまうのである。


つまり、キャリー的青春とは一概に、いじめられっ子の青春ではない。

キングもツメが甘いぜ。

暗黒の青春は、決していじめられっ子だけに宿るものではない。



僕はキャリー的青春を送た人間のことを、

アメリカで起きた銃乱射事件から取って

【コロンバイン型人間】

と呼んでいる。


キャリーは、コロンバイン人間が夢む理想を、

全て詰め込んだ映画なのだ。



断言する。

【コロンバイン型人間】的高校生活を送った人間は、

実に多いと思う。


100人集めたら35人は確実に居るはずだ。


言うなれば、日本人の3割が、コロンバイン銃乱射事件の犯人と

全く同じ発想を持っているのである。

(やんねーけどね。あんなこと)


あの事件が起きた時、理屈ではなく感情で、犯人の高校生に

共感した人は、実は結構居ると思うのだ。


「なんでこんな事件が!?」

じゃなく、

「とうとうやったか!!」

と考えた人は結構多いと思うのだ。


軍事オタクでマンソンフリークの高校生なんて、

コロンバイン型思考の代表的な特徴とすら言える。


平凡で、そして自己を認めないクラスメイト達を、

彼らは毎日毎日ムカついて仕方なかったはずだ。


ひじょーーーーーに分かる。


僕も全く同じである。


『死霊のはらわた』や『シベリア超特急』や『銀河』なんかを観ては

偉くなった気になり、岩井俊二なんかを語る一軍系男子に殺意を

燃やしていた。


マイナーな、通好みの映画を観ては、自分が偉くなったようで、

それでもクラスで「スゴイ」と言われない状況に腹が立っていた。



…字面で書いてみてビックリした。

当たり前である。

なんで『シベ超』見てたらクラスメイトに尊敬されるのだ?

水野晴朗への信頼が篤すぎである。ティーンの俺。


閑話休題



しかし、まあ自我が肥大化している高校生の発想なんてそんなもんである。


自分は特別であり、この特別ではない(と勝手に思ってる)クラスメイトや

教師陣に勝手にムカつくのである。


そしていつの間にか、コロンバイン型人間の胸には、

「全部ぶっ壊してやりたい」という欲求が根付くのだ。

 


しかし、殆どのコロンバイン型高校生たちは、それをしない。


あらゆる同級生たちが青春を謳歌していく中で、

コロンバイン型高校生たちは国語の教科書に

中原中也詩集とかブコウスキー短編集なんかを隠して、

もの思ってるはずなのだ。



部活・友情・修学旅行や文化祭。


そんなことには目もくれず、ひたすら己の闇を深くすることに

没頭する人種、というものが、この世には存在しているのだ。



僕がそうだったから分かるのだけど、コロンバイン型生徒は

打率7割の確立で教師から嫌われる。


というか煙たがれる。


そりゃそうだ。


獲物を狙うネコの様な目つきで奴らは、一番身近な大人である

教師を見ている。


精査している。


隣の高校のヤンキー君を半殺しにする悪男くんをハグする体育教師でさえ、

コロンバイン型生徒を忌避する傾向が高い。



だから僕は常々思う。



そんな頭の弱い教師の言うことなど、聞かなくてよい。


クラスの半数が好むカラオケソングの歌詞を暗記する必要などない。


ベッキー的立ち位置のやや良しのクラスメイトに、文化祭前日に

何で心をひとつにしてくれないの!?

と泣かれても、

お前ホームベースみてえな顔だな。

と言ってやればよい。




自由に生きればいいと思うのだ。


心を閉じろ!!

焦ろ!!

怒れ!!



5年はしんどい時期が続くけれど、5年後、ものすんごい楽しいよ~




未成年凶悪事件を防ぐ方法は簡単。


コロンバイン型高校生たちを野に放てばよい。