先ず、最初に下記のフレーズを見てピントきた方は、時代の変化を敏感に感じている方だと思う。

•「モノ」から「コト」へ、「グローバル」から「グローカル」へ、

何が言いたたいのかというと、ここ数十年前から、ちょうどITが生活の一部になり始めた頃から、資本主義の在り方が大きく変わった様だ。これ迄は、人々が欲しがるモノを提供することが企業の役目で、時には購買欲をそそる過剰な演出さえしてきた。が、ITの出現により、人々が自分にとって本当に必要なのは何かを、選択する時代になると、消費者が欲しがるモノは、単純に「モノ」ではなく、モノに備わる「価値」であり、「ことがら」であると明確に主張し始めたわけだ。
安くて手軽でボリューミーなハンバーガーを提供すれば儲かる時代は終わり、安全で衛生的であることを消費者は望んだ。

一歩先を歩んでいたソニーブランドの発進力は、外資の大幅参入による経営理念の変革とともに魅力を失いつつある。

ガテン系の運送会社は、人力ではなく頭脳で要領よく集配するシステムの導入に乗り遅れた結果、配達人員の質の低下を招いた。

これらの企業を一括りにするのは少々乱暴だが、要するに業績や数字を上げることのみに執着し過ぎて、企業理念や、社会的意義を見失った企業は必ず利益を損ねるというのは資本主義の基本の基だということだ。

企業は誰のもの?という問いに、株主のものだと言う経営者は、正直時代遅れだ。一番最初の基本にもどって考える時期にきているのだとすれば、答えはこうだ。

企業は、お客様のもの。その国、その土地、そこで暮らす人々のもの。

日々その場所で日常生活を過ごす人々に愛され、その地で利益が生み出せる事自体が、軌跡的な出会いであり、財産であり、投資家からの莫大な資本よりも価値の高い企業の資産なのだから。







インターネットの開発により、私たちは欲しい情報を簡単に手に入られる様になり、日常生活はそれ以前とは比べものにならないほど便利になった。だが、同時に悪意に満ちた情報や誤報により、著しく名誉を傷つけられる被害が増加し、大きな社会問題となっている。この背景を受け、Yahooが検索情報の削除について一定の基準を策定し公表した。

最近、特に問題となっているリベンジポルノや、事実無根の犯罪歴を書かれたなどの例は典型だが、何よりも厄介なのは、テレビや雑誌と違い、一度ネット上に掲載された情報は基本的には消えないという点だ。悪意に満ちた情報や誤報でも、訂正やお詫びが追記される事はなく、過去の情報を最新に書き換えるケアもない。

言うまでもなく、誰でも、どこにいても、何にも規制されることなく自由に発信できるのがインターネットの魅力であるが、表現の自由のもとに「書きっぱなし」になっている情報の劣悪ぶりに対し、「忘れられる権利」について、欧米では議論が活発化し始めた。

既にGoogleは、ヨーロッパにおいて削除のガイドラインを策定し、削除以来を積極的に受け付けているが、アメリカでは表現の自由が重視され、削除には消極的だ。

日本ではどうだろう。
Yahooのガイドラインを見る限り、削除の対象がやや限定されていて、「忘れられる権利」というよりは、未成年の保護に基準をおいているような気も否めないが、これををきかっけに、日本でも表現の自由と個人情報の保護という今までの視点の他に、ネットの出現によって新たな価値観として誕生した「忘れられる権利」について、議論が進むと良いのだが。



就任時に全国最年少市長として注目されていた岐阜県美濃加茂市の藤井市長が、収賄に問われていた事件に無罪の判決が出た。時を同じくして、2002年の氷見冤罪事件で再審無罪となった柳原氏が、県警と富山地検を相手に国家賠償訴訟を起こしていた裁判に、警察の捜査の違法性が認める判決がでた(地検の違法性は退けられた)

両事件の詳細については、ここで語るスペースも無いし、既に大きなニュースとして取り上げられているので割愛するが、それぞれの判決がでるまでの両者の状況について少し触れておこう。

藤井市長は、一環して「金銭を受け取った事実はない」として市長職を辞せず、無実を信じる多くの支援者に支えられながら、市政運営に携わって来た。とはいえ、疑いだけで市政を預かる長を起訴しようとする検察の行為は市政及び市民を混乱させたとして、批判の声が上がっている、

一方、柳原氏は既に一審で有罪となり、五年間服役した。その間の失われた時間や、精神的、肉体的苦痛は、計り知れないものがある。

悲しいが、冤罪事件は後を経たない。もちろん警察や検察だって人間なんだから、ミスをするのはしかたがない。が、それが、避けられなかったミスなのか、それとも「検挙率を上げたい」とか「メンツの問題」或は「当事者の生い立ちや社会的背景による思い込みや刷り込み」などが在ったとしたら、それは白日のもとに曝されなくてはいけない。例え、謝罪して許される事ではないにしても、なぜそのような自体が起きたのか、そこにどのうような心理が働いたのかを検証しなければ、冤罪の撲滅には繋がらない。

罪人を捕らえ、裁くと言う職業は、辛く、孤独で、厳しい現実を背負わされた過酷な職業だ。それでも警察や検察が必要なのは、刑事や検察官が常に真実を見極めようとする公平な目を持っていると信じているからだ。その信頼が失われる様な事があっては、法治国家は成り立たない。