就任時に全国最年少市長として注目されていた岐阜県美濃加茂市の藤井市長が、収賄に問われていた事件に無罪の判決が出た。時を同じくして、2002年の氷見冤罪事件で再審無罪となった柳原氏が、県警と富山地検を相手に国家賠償訴訟を起こしていた裁判に、警察の捜査の違法性が認める判決がでた(地検の違法性は退けられた)

両事件の詳細については、ここで語るスペースも無いし、既に大きなニュースとして取り上げられているので割愛するが、それぞれの判決がでるまでの両者の状況について少し触れておこう。

藤井市長は、一環して「金銭を受け取った事実はない」として市長職を辞せず、無実を信じる多くの支援者に支えられながら、市政運営に携わって来た。とはいえ、疑いだけで市政を預かる長を起訴しようとする検察の行為は市政及び市民を混乱させたとして、批判の声が上がっている、

一方、柳原氏は既に一審で有罪となり、五年間服役した。その間の失われた時間や、精神的、肉体的苦痛は、計り知れないものがある。

悲しいが、冤罪事件は後を経たない。もちろん警察や検察だって人間なんだから、ミスをするのはしかたがない。が、それが、避けられなかったミスなのか、それとも「検挙率を上げたい」とか「メンツの問題」或は「当事者の生い立ちや社会的背景による思い込みや刷り込み」などが在ったとしたら、それは白日のもとに曝されなくてはいけない。例え、謝罪して許される事ではないにしても、なぜそのような自体が起きたのか、そこにどのうような心理が働いたのかを検証しなければ、冤罪の撲滅には繋がらない。

罪人を捕らえ、裁くと言う職業は、辛く、孤独で、厳しい現実を背負わされた過酷な職業だ。それでも警察や検察が必要なのは、刑事や検察官が常に真実を見極めようとする公平な目を持っていると信じているからだ。その信頼が失われる様な事があっては、法治国家は成り立たない。