第六百六十五段 事任八幡宮での歌(前編)
昔、男ありけり。今も男あり。
その男、平成二十九年十月
掛川にある遠江国一の宮の事任八幡宮へ行きけり。
事任八幡宮の主祭神は己等乃麻知比売命。ことのまちの「こと」とは「事」と「言」のことで、「まち」は「真知」で真を知る神様なり。また言葉で事を取り結ぶ働きをもたらす、まさに言霊の神様なり。ままは「意のまま」「思ひのまま」の「まま」。
平安時代の清少納言の『枕草子』に「ことのまま明神 いとたのもし」とあり、平安時代すでに「願ひ事を(その)ままに叶へてくださる神」として有名。古来、神官以外の一般の人々は神様に対して祈りを捧げる時、和歌の形式を採る。歌の出来が良ければ願ひ事はその「まま」叶ひ、願ひ事が叶はない時は歌の出来が悪かっからと反省したといふ。
して彼の鴨長明も「またも来ん わがねぎことの ままならば しばし散らすな 木々のもみぢ葉」の歌を遺しければ
その男も歌を
願ひ事 思ひのままに 意のままに
叶ふとぞいふ 神に何祈む
わが知らぬ 言葉と出会ひ 調ぶるを
惜しまぬ労を 矜持としつつ