初段 カシミール地方のナン
むかし、男ありけり。今も男ありけり。
その男、バツイチなりけり。
身を要なきものと思ひつつも会社員を続けてゐたり。
職種は外回りの営業なり。
今、はやりのひとり分の弁当を作ることはなく、
もはら昼食に外食を摂りつづけたり。
どのみち食べるのであれば、
営業地域内の全店舗制覇を願ひけり。
行き付けの店を作らぬ主義をとりけり。
しかして今日は、インド料理店に入りりけり。
メニューを見やればカシミール地方のナン、
目にとまりて注文しにけり。
カシミールと云へば、インドとパキスタンの国境紛争地域であり、高級セーター・マフラーなど、
カシミアの由来になりし羊毛の特産の地域なり。
して、出で来しナンは杏子の果実の載りて極めて甘き味なれば、永きあひだ、紛争に苦しんでゐるであらう人々の身の上を思ひつつ
歌を
カシミール 地方のナンは 甘かりき
紛争つづきに 人ら飢ゑゐて
と詠みて、遥か彼方の彼の地の平和を祈りけり。