一年の境目がたくさん存在する要因のひとつに暦の混乱があげられます。

 

自然の運行にまかせて生活を律していく自然暦から、月の満ち欠けによって日数を数える太陰暦、地球が太陽のまわりを一周することをもって一年とする太陽暦、太陰暦に太陽暦の要素をとりいれた太陰太陽暦へと変化することで、それぞれが複雑に絡み合って今日の年中行事の日取りになっています。

 

 

一昨日の2月12日は太陰暦の元旦にあたる旧正月でしたが、これは「立春に最も近い新月の日」であり、中国の春節やベトナムのテトにあたり、日本でも沖縄や南西諸島では行事や神事が行われます。

 

これら漁業の盛んな地域では月の引力が潮の干満に影響を与えるため月の状態を知る必要があり、旧暦の知識が欠かせなかったりするので、現在でも年中行事を行うときには旧暦の日取りが大切にされているようです。

今年は2月2日が節分でした。

 

南南東に向いて恵方巻を黙って一気に食べ、福徳をたっぷり吸収された方も多いことでしょう。

 

結局、恵方とは何だったのかというと、柳田国男は「春の来る路」であるといってます(新たなる太陽)

 

年の変わり目は暦の上では節分であり、それが立春の前夜であり、冬から春に変わる境目になっていました。

 

 

正月は一年の境目でしたが、月の満ち欠けのリズムからいうと1月15日の満月、農事暦からいうと稲作の種下ろしが年初にあたるため、新年の観念は1月の元旦から2月の立春、3月の春彼岸、さらに4月8日前後に至るまで存在するといってもいいようです。

民俗学者の柳田国男は「先祖の話」や「新たなる太陽」などにおいて年神様について書いています。

 

 

年神様とは遠い先祖の神であり、さらにその先祖の神が家々の田植えや種まきなどの日に田んぼに降りる田の神だったのではないか

 

お盆の祭りと正月の行事は似通った点が多いことから、先祖の神様が家に訪れるのは盆と正月の年に2回あったのではないか

 

暦が普及する前の自然観察の時代には、1月15日ごろの満月の小正月が本当のお正月だったのではないか、などの説を唱えています。

 

 

年神様のお姿については

 

恵比須・大黒の2神

 

福禄寿のような長い頭の翁

 

能の高砂に出てくるような白髪の翁と媼、などの説もあげてます。

 

 

また年神様が来訪神だったことを示す次のような話も載ってます。

 

「北は奥羽から南は暖かな中国の海辺にかけて、正月の子供唄に「正月様はどこから」とか、「どこまでござった」という類の歌が幾らもあることを発見した。

 

すなわち今でも多くの地方では、我々の歳徳神という神が、正月元日の暁に、個々の民家に来訪せられ、十五日頃に還りたまうものと、まだ考えられているらしいのである。

 

『膝栗毛』で有名な十返舎一九の狂歌として伝えられている逸話に、ある年の大晦日に人の家に行くと、歳徳神の棚が曲がっていたとて、主人御幣を担ぎひどく家の者を叱っている。

そこでその機嫌直しにこんな歌をよんだ。

 

  正月ははや神田まで来にけらし すぢかひに釣る歳徳の棚

 

この「すじかい」は今日の万世橋の附近に在った見附門の名であって、ちょうど神田の中ほどである。

 

それと神棚の「すじかい」とを引っ掛けて、しゃれの笑いに紛らわしたものであるが、多分あの頃までは江戸の人も、歳徳神は旅をして来るものと思っていたから、ことにこの歌がおかしかったのであろう。

 

それから思い出すと、我々も小さい時、「早く正月がくるといいなあ」というと、もうどこそこまで来ているよなどと、よく年上の者が戯れたものだが、それは皆昔「正月様はどこから」という類の、歌があって知っていたためで、すなわち「正月」を人のように考えたためでなく、正月になると必ず来る、人のような神様があったことを覚えていた結果である。」

(P318  『柳田國男全集16』 ちくま文庫)