自然暦はその土地の気候の実情に即し、その年の気候の変化を忠実に反映するので、農耕に最も適していました。

 

農作業は太陽の動きにより一年を通してその手順と気候との兼ね合いを考えなければならないので、この頃の自然暦は太陽暦に近いものだったと思われます。

 

 

一方で漁業にたずさわる人々は、潮の干潮に密接な関係のある月の満ち欠けに対して深い関心を持ったと思われ、ひと月の始まりから終わりまでが月の出現と隠れるまでに対応する、太陰暦に近い暦が用いられたと考えられています。

 

そして、早くから農業のための太陽暦と、漁業のための太陽暦との調和が考えられたでしょう。

 

 

自然暦は水稲耕作が始まった初期の段階ではほぼ一致していたでしょうが、水稲耕作の地域が全国的に拡大するのにともない、また山間部と海岸地方の違いなどもあり、次第に地方地方によって気候のずれが大きくなっていったものと思われます。

 

自然暦は地域限定なので広い範囲で使用することができないし、長期にわたり連続した暦法として使用する上では不便になっていきました。

最初の暦は農作業の時期を知るために使われた自然暦と呼ばれるものでした。

 

種をまき、田植えをし、稲を刈る、それらの節目を知るために自然の変化が観察されていました。

 

山の雪がとけて馬や鳥の形になる駒ケ岳や農鳥岳の残雪ぐあいが、種まきなどの農事の目安になったりしました。

 

 

自然暦の時代に生みだされた、田の神を祭り、風や雨の神を祭るなどの神祭りの行事こそ、本来の生きた信仰に支えられたものでしたが、暦の変化につれて年中行事と季節感覚にずれが生じて、行事の真の目的がわかりにくくなってしまいました。

「立春に最も近い新月の日」が旧正月ならば、大正月(おおしょうがつ)は太陽暦の現在の正月、小正月は「太陰暦1月15日の満月の日」を年の初めとする正月です。

 

明治5年(1872)に太陽暦が採用されてからも長い間、民間の一般家庭では太陰暦による昔からの正月を祝い、官庁や学校などでは太陽暦の正月を祝うという二重生活が行われていました。

 

村の太陰暦の休み日と違って正月休みなどは太陽暦だったので不都合が起こり、結局太陽暦にまとめるしかなくなり、特に正月行事だけに限って太陽暦を採用したという地域が昭和初期ぐらいまではあったようです。

 

 

小正月にはとくに農作に関係の深い行事や呪法が行われました。

 

この一年が豊かな実りであるようにとの期待をこめて、作物のさまざまな実りの姿を座敷いっぱいに模擬的に飾り立て、豊作や多産を願う餅花(もちばな)や繭玉(まゆだま)などの行事、一年の穀類の出来具合を占う年占、幸福の神の化身としての子供や青年が家々を回る異形者来訪などがありました。