人魚のご利益に不老長寿のほかに疫病除けが加わったのは、この黄表紙がきっかけになったと考えます。

 

娘の人魚が平次と結婚することで平次の持っていた疫病退散のご利益が人魚に移っても、人々にはきっと自然なこととして受け取られたことでしょう。

 

 

そして約30年後に人魚(神社姫)が登場した瓦版は、疫病除けの護符として世間に広まっていきました。

 

神社姫の記事を書いた加藤曳尾庵(えびあん)自身は、「例の愚俗の習わし」といって瓦版護符の効果には冷ややかな目でみていたようです。

 

流行神発生の観点からみても、人魚が出現したという瓦版上の「奇瑞」はあっても、このおかげで疫病にかからなかった、もしくは病気が治ったという「霊験」の記事がみられないので、本当に効果があったかどうかは疑問です。

 

 

『疫神とその周辺』(大島建彦著 岩崎美術社)によると、実際の清次が建造した釣船神社は南八丁堀から新富町に遷り、霊験あらたかで年に一度のお札の授与日には大勢の参拝客が集まり、明治の中期ごろまでは講中などもできて盛んだったようです。

 

その後、神社の信仰はおもに講中の組織によってささえられ、昭和の終わりぐらいまではもち伝えられていたようです。