時には強引に独りにならねばならない時もある | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

大体自分が悪く言われるのはコミュニケーション能力の低さとか空気が読めないとかお世辞やお追従が出来ないとかそういうことなので、

どう考えても臨機応変な対応が出来ずに、大抵直感的に間違えているから、その場その場で何かをやらかしている。

そして家に帰って一人で反省会を開いて頭を抱えるが、次の対策を考えても自分の頭の中だけの勝手な台本であるために、

想定外の話しをされたり、人がいつもと違う態度をとってきた場合に完全に墓穴を掘る。

人間が人間らしくあればあるほどに対応可能な確率が落ちていくのが発達障害の辛いところである。

そして失敗を積み重ねれば積み重ねるほど、自分に自信や未来がなくなり、自己肯定感が著しく低かったり鬱傾向になる。

健常者でも人間関係が上手くいかなかったりパワハラ等ハラスメントを日常的に受けていれば当然鬱になったりメンタルが壊れるように、

もっと人間関係が上手くいかない発達障害は簡単にメンタルが落ち込んで穴が開くのである。

コミュニケーション能力が低いというのは訓練や心理療法でどうにかなる部分もあるけれども、訓練してない場面はどうしようもない。

人間関係でマイナスの結果が続けば明日もマイナスになるだろうとか思って、人間関係から逃避したり、

お坊さんや仙人みたいに人のいない場所に出奔したり出家したりとにかく隠れる、隠遁したくなると思うようになる。

逃げたいのもそうだが、楽しくない人間関係なんて毎日維持しておく努力をしようとか為になるとかプラスに考えられるものではない。

人とぶつかればぶつかるほど人間自体が嫌な事態、存在である、と考える方向に向くのも必然的なものだろうと考えるのである。

毎日石をぶつけられたり、投げつけられたりするなら、そんな場所には近寄らないようにするのが正しいことだとは思わないだろうか。

ましてや生きているだけで石を投げつけられるような現状である。自己肯定感も低いし、生きているのも嫌だが勝手に死ぬのも許されない。

なら逃げたり人から離れたりしないと死にたくなるような気分になる人間は、もっと積極的に人から離れるのが正義なのではないだろうか。

精神的に平和に生きるために人間が不必要であるならばそうしなければならないだろう。

中にはそりが合う人や場所もあるだろうから、完全に逃げたら逃げたできつくなるから、

本当に辛い場所、辛い人から離れることが出来なければ最早生きていることが苦痛でしかない。

人によっては辛い居場所が家庭であったり職場であったり地域社会であったりするわけである。

たとえ今家庭が安心できる場所であっても、その家族が亡くなったり人が増えたりすればこの先は不安定要素でしかない。

福祉施設で安心して話ができる人がいても、その人がいつまでもそこにいられるとも限らない。

特定のメンターがいなくなってしまえば支え棒を蹴られて外された状態になるので、そうなれば不安と憂鬱が増してしまうことになる。

そうなれば不安に苛まれる日々が続くだけなので、至急安全地帯を見つけなければならなくなる。見つからなければ独りになるしかない。

少なくとも不安定な状態で不安定な場面、場所に置かれて安心できる、などということはない。そうなれば逃げて独りになる安心が必要になる。

逃げられる権利がないとコミュニケーション能力がない人間は孤立することすらかなわない。ましてや平穏に生きられるはずがない。

隠遁するというのは、ひきこもりとか悪く言われるかもしれないが、人間が自分にはどうしても扱いきれなければ隠遁するしかない。

そうしなければ精神の安定が保てずより一層トラブルの可能性が高まるからである。そういう意味では孤立するしかないとも言える。

僧侶なり哲学者なり思想家なりアクが強い人は往々にしてそのように逃避的な人間関係になってしまう可能性が高くなるわけで、

存在のアクが強い発達障害ならもっと気楽に社会からある程度抜けられる安全性というものがなければ安心することも許されないだろう。

人が岩のように立ち塞がったり、嫌なことを日々いわれたり、訳のわからないことを努力しろと言われる毎日が続けば、

社会が嫌になったり逃げたくなったり投げ出したりしたくなるのも必然的である、と言えるだろう。

何故、どうして、という理由、根拠がない会話、行為ほど苦痛になるものはない。

協調性がない、とはその理由だったり根拠がどこにも見つからない状況である。見つからないどころか気づくことも出来ないかもしれない。

当然場面場面で対応することが出来ずに行き詰まり、心理的に閉塞感だったり虚無感だったり要するに絶望を背負うわけである。

何もしないこと、何も関わらないことが正義であるとは言い切れないが、人と会えばぶつかることになれば、敢えて離れる方が無理のないことになる。

そうしないと心の、メンタルのダメージが更に大きくなって取り返しがつかなくなってしまうからである。

適度に人と離れる、適度に人と会わない、適度に孤立する、ひきこもる、あらゆる人間関係を遮断できる、

そういう空間や時間、物理的構造がなければ人間として存在することに耐えられなくなってしまうだろう。

瞬間的に酷くなればパニックになったりフリーズしたりするから、そうなってしまえば本当にすぐに隠れられる場所が必要になる。

何でもいいから狭くて外から刺激のない狭い部屋、所謂カームダウンルームがあちこちに設置される動きがあるが、

そういう部屋、空間、「人間を見なくていい、聞かなくていい空間」は一日どこでもなるべく確保されている必要がある。

発達障害にとって人間関係を維持「させる」「される」ことは時に苦痛に、メンタルヘルス的に有毒である可能性になりうる。

独りになれる権利がなければ生きていてもとてもつまらないだろう。少なくとも自分にはそうである。

誠に遺憾である。