親とかたまに数時間にわたって誰かと長電話をすることがあるが、そんなに話すことなんてあるのかと毎回思う。
電話なんて要件だけ手短に伝えて終わりだろう。
それにあんまり話しすぎると電話代自体が怖い。
メールもLINEも特に話す話題も、伝えるべきこともないから自分から送らない。送らないどころか既読にもしないときもある。
周囲でも自分だけ興味があって誰も関心がない話題に突っ込むほど空気が読めないわけではない。いくら発達障害者でも何となく読める。
自分からプロモーションをするにしてもとても口下手だから成功する気がしないから、自分から言い出すことはしない。
何をやるにしても、自分が好きなことを誰もしていなければ喚きちらすことはしない。素晴らしいことは伝えたくなるがそこは我慢である。
独りよがりというか相手の感情をお構いなしに会話という名前の演説を始めるからである。それはもううるさい。
最終的に三島由紀夫のように取り返しのつかない所まで自分で勝手に進めてしまうから、
人前で必要なこと以外はなるべく話さない。電話とかしたら余計に疲れる。
電話を持っていても捕まらない、連絡がつかないくらいが自分にはちょうどいいのです。
なんか管理社会って無意識に人をコントロール下に置きたがりますよね。制度上仕方のない場合もありますが、個人の善意でやられたら滅入る。
孤独死とか生活サインがなければ人に連絡がとれなくても勝手に通報されればいいのに。扉は緊急時だけ蹴破られればいいのです。
私は社会制度並みの人間関係、要は制度的、義務的に付き合っているだけで、人の感情とか心情に深入りしない。
深入りしたらメンタル的に、憂鬱的な意味で病むからである。ことあるごとに出家したら助かるだろうなどと思っている。
ドラマとかなんで人と人がこんな無意味に絡むのか、と問いはじめたりする。台本上そうなるのであるが、本当に過剰な動きをする。
何かと一人になる意義なんて全く無いような動きをするので、見ていると憂鬱になるから見ない。
そもそも空気が読めない、急に演説を始めるような奴にまともな社会性など期待しないでほしい。
人の心が分からない、というのは一字一句違わず人の心が分からないのである。そんな奴を自由に動かせば周りが大変なことになる。
話が通じていないのに対話を続けるなんて虚空に話していた方がお互いにマシである。なんなら壁に話していた方がいいかもしれない。
得意分野では一応知識で話をカバーしてギリギリでセーフかアウト位までは何とかする。
しかし全く話を合わせることが出来ないので、そこから急に興味の薄い別な話題や、個人のプライベートな話になれば安全は確保できない。
私にできるのは人の話に口を挟まず話の内容を克明に頭に記録することだけである。私に話を振られても関心の無い事は話せない。
最終的に端の方でいるのかいないのか分からないくらいの空気になりつつデータだけオートで収集、蒐集する機械のようなものになる。
診断前には色々な会議にも出たが基本何も口を挟まず一刻も早く終わらないかな、という頭数だけの存在であった。
発言力も権威も存在感も何もない人間が会議にいても特に意味もないのに何故駆り出されるのか、とは毎度毎度思ったものである。
今はそれに社交性も感情を読む力もないのが追加されてますます会合や集団の場にいる意味を失っているような状態である。
本当にそこにいるだけなので、なんなら何も言わないで最初から最後まで本当に「いる」だけの存在でしかない。
家に帰してくれ。集団ですることはないが、一人ですることは沢山あるんだ。
毎回結論は大体同じになってしまうが、どうして人は連絡や話し合いをしないと生きていけないのでしょうか。
こんなんだったら手紙の一通さえ届くのに日単位で時間がかかる時代の方がよかっただろう、などと思うのである。
対話にも人は速度を求めすぎだろうと思う。私はその速度についていけない。心など「ない」扱いをされて外に無性に放り出されたくなる。
人を論破することは不可能ではないがそのあとで虚しさや何故俺はこんな無駄な時間を、と思うようになるだけである。
家にいても同じである。今まで(数年前)まで一人暮らしをしていたから、本当に気楽だったが、
実家に戻ることで人が存在することの面倒くささ、なぜ話しをしなければならないのかなどと思うようになった。
親でこれだから、血の繋がっていない人の扱いなど本当にお察しください。
無性に家の中に自分以外いない、本質的に一人になれる時間がないのは不幸である。
雪が降らない間は畑という逃げ場所があるが、雪が積もればプランターの前にでも逃げるしかない。とにかく人のいない場所に逃げて連絡を絶ちたい。
多分死ぬときは一人で死ぬだろう。それは義務であり運命である。誠に遺憾である。