法律というのは言わば生物(なまもの)である。人間の文化や生活が変わることに応じて適宜変形せねばなるまい。
フランス革命やアメリカ南北戦争時代の人権意識が現代にそぐわないように、
いずれ現代の人権意識も未来には時代遅れであると評されるかもしれない。
「現在の道徳で過去を裁いてはならない」とよく言われるが、それは憲法とて例外ではない。
約八十年前の法律意識・道徳で出来上がった憲法で現在を規定することのなんと時代遅れなことか。
一文も変えられないからこそ解釈で何とか乗り切るようなことを繰り返しても、人権意識というものは常に変化する。
SDGsとかジェンダーとかコンプライアンスとか何たらハラスメントとか憲法が出来上がった頃には無かった概念、
無かった権利、無かった人権というものは次々と生えてくる。
その善し悪しは別としても、常に基準やら規準が変化して止めどないのに、憲法だけ固定されるべきものなのか。
それはフリントロック銃で現在の重火器に挑むような物で、いくら昔の物を崇め奉っていても、
「けれど性能の差で…」と言わざるを得ない時期や決断を迫られる時期はきっとやってくる。
いつまで憲法を金科玉条扱いするつもりだろうか。
独裁者や強権をふりまわすような政治家が出てはいけない、というのはわかる。
しかし法律を簡単に変えてはいけない構造にしてしまうことが直接的に独裁を生み出すわけではない。
反対するものがあまりに頼りなさ過ぎる場合に結果的に独裁的に近い状態になってしまうようなことがあっても、
それを新しい実力者が時間をかけてでも着実にひっくり返せるようであれば独裁とは言わない。
クーデターや革命でも起こさなければひっくり返すことも容易ではないことを独裁というのである。
今や憲法がクーデターでも起こさなければ安易に変えられないような状況に陥り、
時代に応じた法律意識に憲法そのものがついて行けない時期がやってくる。
ハムラビ法典も現代では適応できないし、王権も現状象徴として存在するのみになったし、
現在王権のように言われるのは世襲の独裁者や一党独裁主義のような専制的な政治主権である。
その気になれば選挙でひっくり返せるものを独裁とは言わない。
この間の補欠選挙も与党側が見事に候補者すら出せない不戦敗でボロボロになったが、
選挙をやっているけれども選挙として機能していないものを独裁というのである。
もし現状を独裁というのなら無理矢理与党の息のかかった誰かを担ぎ出して強引な選挙活動を行い、
野党を取り締まり、何なら野党の党首や幹部を逮捕、収監してまで野党の活動自体を根こそぎ止めようとするだろう。
それは大体隣の国の大体ほとんどが自らを隠さずに例として、明らかに示している。
しかし現状この国はそこまで独裁ではないから、憲法は変えるべきではない、というのは論理的な文章として通用するのであろうか。
そもそも憲法改正反対を一番独裁っぽい政党が訴えるのは皮肉か何かであろうか。
たとえどんなよい、時代に沿った法律があろうとも使う者がだらしないと形骸化し意味をなさない。
つまるところ主権者たる国民の責任である。
何か危機的なときにちゃんと国民が団結して動かないと、憲法が今の形であれ改正された形であれ、どうであれ万全に機能しないことになる。
政治家が全部片付けてくれるだろう、とはなんと無責任な話だろうか、もう投げやりとしか言えないような投票率で、
主権者が主権者たる国民の責任を果たしているのだろうか、という気にはなる。
パンとサーカスでその日暮らしをすればあとは誰かが勝手にやってくれる、みたいな簡単な話ではないのである。
法律は器である。その時代に応じて変わっていかなければ、古い革袋に物を入れても破けて漏れるだけである。
新しい時代には新しい革袋を準備し、ちゃんとしつらえて、精巧に仕上げなければならない。
そして更に新しい時代にはそれも古くなるから、また新しくちゃんとしつらえる機会がやってくるだけである。
人間で言えば新陳代謝を果たしていないような状況にある憲法を果たして生きていると見なしていいのか、
無理矢理延命装置に繋げて生かしているものを生きているとは言わない。
万が一酷い形に法律が変えられたとしても直ちに修正できる体制が整っていれば政治が生きていると言える。
その変更すら許されない現状とは何か。良いものであるにしろ、いずれ時代の変化に置いて行かれるのが法律である。
法律は生物であるが故に、固定されることを許されない。それを固定するのは昆虫標本をありがたがる好事家くらいである。
その趣味でもないものが骨董品をありがたがって、一体周囲に何の利益をもたらすであろうか。
誠に遺憾である。