現実という虚無への供物に四月馬鹿を見る | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私という存在はいずれ消え行き、自我の認識出来ない何かになる。

一応遺しておくものも、いつまで残るか分からないし、そもそも長期的に見れば人類自体環境の変化に適応できなければ恐竜のように滅亡する。

そして足掻き回っても太陽系の外に出なければベテルギウスのように膨張した太陽に飲み込まれて跡形も残らなくなる、

と考えた時に我々って一体何なんでしょうね、と思うわけである。

根本的に無意味を抱えた存在であるのに魂の存続だの理解だの説いてもさらに無意味になるだけではないか。

もし何かを超越できる存在がある、とするならばこの積み重ねるしかない時間の経過をも超越してあらゆる変化を阻止しなければいけない。

時間の経過とともに環境が変動するのは明白だからである。

ましてや人間なんて一回死んだら終わり、の極めて有限な存在である。

虫などその辺に動いているのを潰してみたとして、それで人間の理性や知性が向上するのか。

我々はどこを彷徨ってどこをほっつき歩いているのであろうか。

仕事をするのも趣味に打ち込むのも極論死ぬまでの瞬間までの逃避、あるいは暇つぶし、全てのことを死ぬためにこなしているようなものなのに、

自ら死を選ぶことは罷りならぬという。そう言えるだけの社会的な根拠とは何か。

どんな死に関する話題でも即答できない限り、哲学に終わりはないだろう。どんな形で死ぬとしても死ぬその時まで哲学はしなければならないのである。

魂が何とか、汚れているとか不浄であるとか色々言われているけれども、汚れているのは人間の間に存在する限りであって、

別に誰ともいなければ汚れる事もなにもない。人間が勝手に、後天的に価値をつけ出すものに穢れているもクソもあるだろうか。

美しいものを美しいと言えるのは、自分が美しいと思ったからであり、それ以外の動機なら言わされたものであり無効である。

その美しいが共有される認識になればなるほど公共性が高まり、合致すれば褒められる代わりに、評価から外れたものは軒並みシャットアウトされる。

何なら石を投げつけられたり、処刑されたりする。民主主義に逆らった代償によるギロチン刑の無意味な乱発は、共有する感覚が極めて狭まった結果によるものであると考えてもいいだろう。

そういう儀式的な刑で死んだとしても、その辺でなんか勝手にのたれ死んだとしても、結論としては全く変わらない死があるだけである。

私たちは本当にいったい何の為に生きているのでしょうか。生かされているのは一体何故なんだ。

誠に遺憾である。