もう起伏なんて全部無くしてくれよ | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

精神が荒れると、大体人と会うことに恐れとか不安を感じる。

知人であろうと親戚であろうと必要最低限の訪問以外の人間関係をこなしたくはない。

こなせないからである。

一人暮らしをすれば最低限の人間関係で、来客されるほどの人間関係を築かなければいいから、そのようにやって来たし、

実際一人暮らしをしていた頃に自宅にくる物好きな人間なんてものもいなかった。

薬屋の定期的な薬の入れ替えと、賃貸に住んでいる時に定期的にする家の器具点検の業者と、私の家に来た来客というのはその程度であった。

今は実家に住んでいるから、親の人間関係が家庭に反映されて、家に誰も来ないという理想的な状況を築くことができなくなったので、

急に客は来るし、急に業者は来るし、落ち着かないことこの上ない。

客が来てすぐに帰るならまだしも、雑談とかを居間でやられるとおちおち下にも降りられない。

私にとって行動を阻害する要因というのが「人がいること」である。視線とか実に恐ろしいじゃないですか。

自分の行状を知っている人間の視線なんて刃のようである。見られないに越した事はない。

見られているという意識は、無意識で人間の対応、何を言うべきか言わないべきかに振り分けられるので、周囲に気を遣う余裕などない。

普段しないことをするということは精神的に負荷がかかるということである。普通に外で人付き合いをしても負荷がかかるのに、

ホームグラウンドで来客応対するなんて、自分を見せながら自分を見せないという矛盾の上に成立しているから、しないに越した事はない。

大学の教授の部屋みたいに、自分の専門分野の本と最低限の椅子と机、みたいに、見せたいものだけ見せられるという構造が自室にはない。

人が来るごとに何かに怯えたようになり、部屋の物を病的に、強迫的に整理したり、などというのは正常ではなく違和感の塊である。

自閉症スペクトラムの何か違和感というか怪しいところのいうのは、人付き合いの間から勝手に滲み出す濁った液体か粘液のようなものである。

ひっそりとこっそりと隠れて生きることはそんなに難しい事ですか。

一人暮らしなら簡単に出来ることも二人以上になると実に難しくなる。話すこともないのに人と同じ空間にいるなんて苦痛以外の何物でもない。

しかし私には一人暮らしを展開する資金的余裕はない。公営住宅でも、と考えたが町内会の人間関係が増えれば簡単に精神的に死に至る。

お金なら耳を揃えて一年分払うから、あとは放っておいてくれ、そういう障害だから、で済ませられるなら何と気楽なことであろうか。

何処かの掃除とか、定例会とか、何も自分には目的のないことを繰り返されても私にはただ一切が流れていくだけである。

私は私と向き合っていないと、何故か生きている気がしない。しなくてたまらない。対話というのは統一を妨げる行動である。

対話をしたい人はすればいいと思う。したくない人を巻き込みさえしなければ私は何も言わない。

それだけで棲み分けはできるじゃないですか、などと私は思うのである。


何かのイベントで「奮ってご参加下さい」とはよく言われるが、私にすれば人の間に紛れ込むことが、

私の精神の何かを「奪ってご参加する」ことである。

誠に遺憾である。