神経質な自分は勝手に鬱になる | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

自分は小さい頃から「神経質が服を着て歩いている」ようなこだわりの強い状況なので、

極端なことを言えば一人でいないと神経が保たないような時もある。

一人になりたいときに誰かがいれば何も出来ない。ただ憂鬱な時間が流れているだけの脳内になる。

それは果たして平和と言えるのだろうか。

だが自分の自意識が、美意識が極端な方向に行ってしまえば実に誰とも合わないし実際誰にも会えない。

日常生活が、ライフスタイルが噛み合わない時は特にそうなる。

別に孤独であることに異議はない。一人になれる時間が確保できないと死ぬ。

しかしそれ以上に、人と居て何もかもが噛み合わないともっと死ぬ。

自分が取り組んでいることについて話が出来ないような状態で楽しみなんて見いだせるだろうか。

趣味の話、その他信念や信条の話、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、みたいな、

色々な物を誰に話しても無駄だと感じるときほど侘しさを感じるときはない。親ですらそうである。

例えば親子で歌を趣味にしているときに私はクラシック音楽の声楽を学んだのでそういう歌い方をする。

親は年代世代的に演歌や民謡系に進むような年齢なのでそういう歌い方をする。

全く話が噛み合わない。そもそも民謡みたいな物や日本の歌謡が嫌になって、

ヴィジュアル系とか欧米メタルとかクラシックに進んだ奴に日常的に演歌を聴かすとか何の拷問ですか。

何でもかんでもカラオケという一つの枠に入れてしまえば話は済むなんて簡単に考えてくれる。

そこだけでもう話の盛り上がりに至る道筋は絶たれたようなもので、どうしようもない。

そんな程度で喧嘩別れしそうなレベルの繊細さをあらゆる趣味で平等に発揮するので、

本当に話が噛み合わないときは喧嘩腰になるからむしろ口を開かさない方が遙かにマシである。

マシではあるが何も言えないことが積み重なると本当に一人になりたくなるし、本当に誰とも話したくなくなる。

繊細さ極まれり、という奴である。

終いには噛み合わない話に疲れ果てて日常で出す僅かな音に敏感になり、自室に引きこもる。

話が出来る相手が居るならまだ出て行くだけの楽しみはあるかもしれない。

現状何もない状態で、外に出ろと言われても何をしに行けというのか、と思う訳なのである。

今日はいい気分なのでマクダウェルのピアノ協奏曲第1番(どう考えてもグリーグですよね、これ)をかける、とか

もうちょっと繊細にしてヴュータンのヴァイオリン協奏曲第5番にしよう、という選択肢がない人と話が噛み合うとは思わないが、

そんな人間をど田舎で見つけるのは本当に至難の業である。

ヴュータンなんてヴァイオリンをやっているかよほど好きでも無ければまず選択肢に出てこない。

大体普通の(普通って何だ)ポップスの話になりますよね、といって一番無難な選択肢が、

自分にとっては最も忌み嫌うべきもので、まず無難な選択肢ではない、という矛盾しかないような状況が、

神経質なのを更に悪化させる原因になるのである。要は自分のせいなのです。

大体一番真面目に出来る話が諸子百家とか日本文学、短歌や俳句とか仏教とか哲学、という時点で、

日常会話の「日常」って本当に何でしょうね、という意識になる。

日常的に哲学を話題にしている人間は、哲学が日常会話であり、その他の雑談的なものは日常会話には含まれない可能性が出る。

寺で修行をしている僧侶は仏教が日常会話であり、日常生活が仏教である。

何か専門的なことを勝手に掘り下げていった自分には、雑談というものは本当に筋道の通らない会話であり、

あんまりしつこいと精神がやられる。無縁な無益な話を繰り返し聞かされても一体何をさせようというのか私にはわからない。

自分がしたい話ができず、他人の言いたいことばかり聞かされて、心が病まないはずがなかろう。

興味のない話題の会話なんて説教か拷問の類いである。それを日常会話と言って時間単位で繰り返されると、

まず精神に無力感という傷が繰り返しつけられるということになる。続けると生きる気力と意味を失い、

最終的に口を開く意欲までもなくしてしまうものなのである。誠に遺憾である。