家族で家庭生活をしていて一番要らない物って何ですか、と問われたら、
その内「自分以外の人間が要らないですね」などと言い出しかねないから困る。
それ家族が要らないとか言うのと同じじゃないですか、と言われたら同じです。
Mother、Mを取ったら他人です、なんてCMで言っていたような気もするが、
家庭から無性に他人を取り払いたくなるときが定期的に訪れるようになるのです。
他の人に何も手出ししなくても何ら構わないから私に構わないでくれと、とにかく可能な限り一人になれる住環境が無性に欲しくなる。
要するに集団生活に向いていない人間に集団生活をさせると、精神に長期的に打撃を与えることになるのです。
家族という構造はそれをわかっちゃいない。
私は私しか居ない空間と時間が永続的に欲しくてたまらない。そのまま死んでもいいくらいに欲しい。
高齢化社会、残された人間の孤独死とか言われるが、それは孤独死に「寂しい」というスティグマを与えて、
家庭を持ちましょう、人と接近しましょう、と暗に伝えているのだろう。
それが嫌だからあえて一人になりたがる人が居るということもちっともわかっちゃいない。
せめて同じ家の中ではなく、離れとか空間的に隔てられた空間が欲しくなるわけなのである。
生存確認なんてスマホの福祉のアプリで定期的にボタンを押したら、
生存確認の指紋認証か他の生体認証がなされて何処かの施設に認証が飛んで行く、
一日か二日程度押下されなければ勝手に役場か救急や警察に連絡が行く位のが出来れば、
積極的にインストールして連打します。その程度のことができなければどのみち死んでいるのと同じである。
何その機械的な生存確認、と言われそうですが、人情や訳のわからない感情を押しつけられるより、
論理的だとは思いませんか。全てはロジックで、ロジカルであるべきです。
シェアハウスとか何をとち狂ったらそんな制度を言い出すのか、もう我慢ならない、というような人間の近さで、
いともたやすく吐き気がするように、どんな人間、たとえ家族だとしても、いや家族だから、
無性に吐き気がするときもあるのです。円満な人間関係を構築できない人間が、家族を求めるなんて、
何の驕りですか、随分身に余ることを要求するのですね、と言われても仕方がないだろう。
そういう人に何かをさせている負い目、というのがあってしかも自力で人間関係を維持発展できない、
という奴が家族に対して何か言う権利があるとお思いですか。
私はぶん投げられても仕方がないだろうと思っている。むしろぶん投げられたい。
そうすれば生活保護でも申請できる金科玉条とか大義名分ができるというものである。
家族というのは依存の関係である。依存する以上対価は支払わなければならない。
その対価を支払う能力も財力もないのにサービスだけ享受しようなんて、おこがましいとは思いませんか。
私は極めて無責任でおこがましいと思う。断罪される機会があれば遠慮なく断罪されるべきである。
しかし身分的には障害者でろくな収入もないから、追い出されれば最短で、直滑降で生活保護まで到達するだろう。
だがそれでいいのかもしれない。きっと罰は私に対する正当な報いである。身に余るような物を持っても身に余すだけである。
家族のありがたさなんてわからないような人間が家庭に依存する権利なんてない。
そして人間から追放されればいいのである。
誠に遺憾である。