外向きに自分を啓発するというのは疲れる。内向きの自己啓発なんて飽きるほどやっているが。
カーネギーとかサンデルとかドラッカーとか読んで精神が痛くなって序盤で諦めたが、
外向きの自分を作り替えなければならないというのは途轍もない労力を要求するわけである。
何故なら自分の障害の主症状が、対人関係や社会性の欠如、協調性やコミュニケーション能力の不足だからである。
足りないものを足そうとするのはよくある事であるが、底の抜けている袋にいくら物を入れても全て抜けてしまうのだから実に虚しい。
自己啓発の本というのは基礎的な事をある程度身につけていたり、体感しているから読んで効果が出るのであって、
基礎がなっていない、基礎がどういう概念か把握していない人間が読んでも辛いだけである。
文章の意味は読めても、実感として理解できない。共通する体験がなければ、共感もしようがない。
そもそもコミュニケーションの障害、というのは同じ言葉を使っていて意味が噛み合わない、
相手のことを我が身として考えるとか、相手の思考に共感するとか、相手の心を把握できてから出来るようになることが、
相手の心がわからないし、わかる術が見つからないから言葉だけなんとなく交わして終わるようなものである。
例えば表情とか身振りとかの身体言語がやっているのに伝わっていないとか、読み違えられる、とか、
言葉になってないものが文字通り言葉にできない、理解できない、経験しても学習できない、
と踏んだり蹴ったりみたいなコミュニケーションをダラダラ繰り返していくのである。
こんな体たらくで自己を啓発しても事故を誘発するどころか、思い上がりも甚だしい状況になる。
どうやって自己を売り込むなんて事が出来るだろうか。それこそ徒労に等しい。
外向きの自分を作り替えたという実感もないのに、一体何を作り上げたと言えるのか。
心理学なんてものは、相手のことに共感、協調できるような人がするものであって、
相手の心が読めない人間がやっても火傷をして即退場させられて終わるだろう。
何を学習してもルーチンワーク的な動きが拭えない機械的な動きになりやすい。対人関係の事についても、いや対人関係だから深刻化しやすい。
柔軟性とか臨機応変とか、相手の顔や動きを見て変えなければならない事を一切できない、と言えば何とか分かってもらえるだろうか。
全てが自分の頭の中で完結してしまって、他人に対して応用が一切効かないのである。
自己啓発と言っても、自己啓発の前にもっと啓発しなければ先に進めないものがあって、
それが他人の感情を把握、理解することであれば、一体何処から先に進めるのであろうか。
誠に遺憾である。