大体家庭で精神障害者に実権を握らせると碌な事にならないと思うが、
自分以外パソコンとかインターネットについての知識がないから仕方がない。
両親はなんかもうちょっと意欲的にパソコンについて知りましょうとか言いたくもなる。
何かあったらどうするのか。
今でもスマホで困ったことがわずかにあったら近く(車で30分程度)の窓口まで行って話をして解決しなければならないのだから、
お願いだからもうちょっと知識について貪欲になってくださいと言いたくなる。
こちとらパソコンの事で何か困ったことがあっても全部インターネットの玉石混交のサイトの中から答えを見つけなければいけないんだ。
それはそれとして親は私の使っているパソコンを「パソコン」としか認識していないだろう。
三台ぐらいWindows11のパソコンがあって中身も微妙に入れ替えたり買い換えたりしているのも知らないだろう。
私が自分でパソコンを組み立てているのは知っているだろうが、中身とか気分でコロコロ変わっているのも知らないだろう。
語り得ぬものについては沈黙しなければならない、という言葉のごとく黙っている。
そういうものである。自分たちで買ってきたノートパソコンにも一切関与しないのだから仕方がない。
そうやって人間というものは時代に取り残されていくのである。俺はつらい耐えられない。
長男だからあれこれ言われても何か黙っているが、
パソコンというものは本来数年おきに取り替えなければ処理速度について行けなくなると言ってもわかってもらえないだろう。
知性とは興味関心を失った瞬間に失われていくものである。
同じ意味で私は流行について全く知らないし知ろうともしないし勝手にやってくれと思う。
ただ仕事でも趣味でも触っていないと時代に取り残されるアイテムを触らないで時代について行けないんですけど、と言われてもそれは触れないのが悪いとしか言い様がない。
パソコンさえあれば実践はなくとも概要や理論の端ぐらいはつかめるものである。
私は流れていない知識と繋がっていないと生きている気がしない。
どんな人でも人と会話したら、話のある程度は最新の時事問題だったり、最近起きた事件や事故の話だったりする。
その知識を仕入れることを怠ってどうやって生きろというのか。
新聞も悪いとは思わないがネットのニュースページを見れば最新の事件の話がなだれ込んできて、新鮮さがどんどん失われていく。
良くも悪くも新聞は発行された時間のままで停止している。
テレビの報道はどうしても脚色が入る。事実を淡々と伝えて次にいけばいいのに、
余計な感情や主観の入ったコメンテーターが大体台無しにして通り過ぎていく。
知識は事実の塊としてしか欲しくないわけである。感情抜きの論理的な話が欲しい。
知性があれば情報の中から必要なものを掻い摘まんで要約し、流れを組み立てることができる。必要なときには識者の専門的な情報から勉強すればいい。識者でもない人間が勝手に騒ぎ立てるのは特に知性でもない。
自分が知ろうとしているとき、その情報の出所をおさえて的確に入手し、因果関係を把握できるのであれば、知性といえるのだろうと思う。
誰かの言いなり、扇動的な意見や発言に惑わされる、強い意見に引っ張られる、というのは感情で動いている分だけ知性から遠ざかる。
知らないことについて正しく情報を手に入れる技術があるということこそが知性なのだろうと私は思う。
知るべき情報を知ることによって何か困ることがあるだろうか。むしろ雑音に乱されて知るべきものが歪められる方が問題である。
別に空気は読めなくても情報は適宜入手できなければ何もできる気がしない。
誠に遺憾である。