自分が発達障害であると疑ってから正式に診断されるまで実際一年掛かっていない。
それまで周囲を気にせずにマイペースで過ごしてきたので、意図的なことの有無に関わらず、
沢山の人を巻き添えにして過ごしてまいりました。ダメ人間といえばダメ人間とか言いようがありません。しかも掛け値なしで。
人間、励ます時に「それでもあなたにはいいところもあるから」とか言いますが、
自分に関して言えば「そんなことあるのか」になってしまいます。あるはずの利点も帳消しになるようなマイナス要素しかありません。
何があるかわからないから人は迂闊に褒められません。
プラス思考、とか言いますが、人間の感情の機微が読めないと何をプラスにしていいのか判別がつかなくなる。
簡単に言えば褒める場所、場面で褒めるべきところがあっても見つからない、とか、
全く関係のない内容で褒め出すとか、人間を勘違いした判断基準で動いている。
それでは褒められても「何言ってんだこいつ」となってお互いの正しい評価にはならない。
そしていろいろなボタンを掛け違えたまま時が過ぎていき、いずれすれ違う。
人間とは何か、と言われたら「自分ではない」とは答えられる。正しく人間を見ぬけられない人間が人間を名乗れるものなのだろうか。
これでいくら他人の事を優先しようと、会話や行動がすれ違っているから、何処かでトラブルや不具合が発生してその都度止まるだろう。
とてもではないが円滑、とはとても言えない。言えるなら舌を引きちぎられている。
極端に言えば協調性を求められるほぼ全ての作業には向いていないことになる。
全部を一人で最初から最後までワンマンで行う事によって私の作業は完成する。
誰かの下ならまだいいが上に行ったら確実にタチの悪い独裁者(なお実力はお察し)になる。
誰かと組めば数割程度の実力しか発揮出来ない、一人でやると独自の美意識を追求して帰ってこない、
一体何が正しいと言えるだろうか。
しかし私にとって美しくないものは美しくないというしかないし、嘘をついてそのままにしておけるほど感情も器用ではない。いずれバレる。
人間が不器用なので脳に何かあるとして、色々な手続きや商取引はいいとして、
人間関係そのもの、ファジーでブレのある、柔軟性を求められるような場面ほど私に不適格な場所はないだろう。
人間味のない人間とは何か(哲学)