私は、何かに一人で打ち込んでいる時、とても平和で安らかだと感じる。
周りの雑音とかできる限り無くして、自分が今やりたいこと、やらなければならないことと真摯に向き合いたい。
今まで人の間に入って仕事をして心がボコボコになって帰ってきたから、
障害者手帳を交付されたあとはなるべく人を巻き込まないようにするライフスタイルの確立が求められる、と感じた。
とは言っても仕事をしてから人間関係がほぼ絶滅したので、手帳のできる前の人間関係はノアの方舟に乗り損ねて流されてしまったのだろう。
手帳を貰ってからは親族以外の人間関係はリセットしたようなものなので、
新しく築き直さないといけないが、前ほど必死に築く必要もない。
できれば孤立して一人で出来ることに徹底的に打ち込みたいので、省略できるものはなるべく省略したい。
とりあえず自分の波長の合わない芸術的センスとか感じられないし風流とか微塵もなさそうな風貌の人がいれば意識的にも無意識的にも避けている。
それはもう露骨に。話の合わない人と話をすることほど不毛なことはない。聞いていても疲れる。帰れるなら帰りたい。
こちらの話しかける話題に何だそれというような顔をしたならもう見せるものは何もない。
いくら障害者施設で色々な人がいる、といえども自分に合う人と合わない人くらい分けてもいいと思うのです。
障害者手帳を貰って尚更、八方美人はやめないと精神的な生死に関わることに気がついた。
人付き合いが致命的に下手、つまり世渡りが下手なので、合わない人に合わせるのは互いに時間の無駄、というか虚無である。
とりあえず音楽とか国文学とか芸術に関心のない人と話しても私は退屈でならない。
他の趣味でも同じで、ゲームとかでもジャンルで話が噛み合わない人と何を話せばいいか、と思ううちに話しかけられたくない、と思うようになる。
趣味が合わなければまるで悪夢を観ているような時間を過ごすだろう。
文化レベルが合わないとひどい時には「なぜ人は生きるのだろう?」というような顔をしながら相手を見るだろう。
趣味で文筆活動とか表現活動とかに打ち込んでいると、そういうのに関心のない人とは雰囲気でわかるし、空気が揺らぐので別世界にいたいと思うし、
実際に出くわしたら「俺はつらい耐えられない」とか言いながら何処かに行きかねない。
風流を解する人を、障害者福祉という枠組みの、ほとんど多くの人が障害者の世界でも求めていたが簡単に見当たるはずもなく、
人にそんなに期待しないようにして極力自分で完結する活動を中心に行うようになっていった。
あまりにも周囲と会話が噛み合わないことが多すぎたため、結局一人でチマチマやる以外に解決の手段が見当たらなくなったからである。
大体強制的に独学になって、専門書や手引きを見つつあれこれ頭をつねったりひねったりして、答えを見つけられるように努力するようになった。
文化レベルの違うところに、いくら話してもわかってもらえないところにぶちこまれればすっと心は死ぬだろう。
誠に遺憾である。