浄土真宗というのは他力本願、自力で成仏して極楽浄土には行けないことを悟って、
ひたすらに阿弥陀仏にお願い申し上げ、死とともに即成仏することを念仏を通して祈願する、
と簡単に言えば簡単すぎるかもしれないが、その簡単な念仏すら自分は唱えられているだろうか。
一回きりでも本願から念仏出来れば浄土へ、末法の世から伝えられる変わらない内容ではあるけれども、
当然雑に念仏しても浄土には、悪人でもいける、ということになっているので、
簡単に救われたくなくても実に簡単に救われる、という意味では間違いないのだろう。
浄土経でも上から下まで念仏さえ唱えておれば、功徳に関わらず浄土に到達できる、と説いてあるし、
そういうことにしないと浄土宗が始まった頃の末法の世の中はあまりに悲惨な世相なので、
誰でもどんな身分でも辛い世の中から僅かな心掛けで簡単に救われる方法が求められていたのだとは思うが、
今の情報の満ち溢れた世で、念仏を、正式な念仏を唱えているだろうか、自分も出来ているだろうか、とは不安になる。
まだ子供の純粋な頃に祖母と唱えた南無阿弥陀仏の方が本当に純粋であり、切実なものだっただろう、
今自分がやっている念仏とは果たして念仏なのか、救われるとかどうとかではなく単なる挨拶とか義務とかルーチンワークになっていないだろうか、
生活自体が本願ぼこりになってはいないだろうか、そんな心境で唱えられた念仏は念仏ではあるけれども「本願の念仏」になっているのか。
そんなので本当に救われていいのだろうか、何かもっと心がける元はないのか、
しなければならないことが他にあるのではないかとか思ったりもする。
そんな高尚なことなんてほとんどやっていないようなものだからそれが簡単に救われてもいいのか、と自問自答するのである。
救われ難い人を救うのが念仏の本質的なもの、どうしても修行や鍛錬できる状況や世相ではない、苦しさしかない人々がすがるべきもの、
としての易行の形として念仏があるので、あちこちで末法と嘆かれ疫病や戦乱が蔓延る中での念仏と、
飽食の時代といわれ情報も腐るほどあるような欲に塗れた世界での念仏と、
本質的には平等であるはずなのだろうが、状況的に平等であると言い切れるのだろうか。
何かの貴族と貧しい平民では寄付金にもどうしても差が出てしまうが、だからといって生活費の中から捻出した僅かな寄付金が意味がない訳ではない。
むしろ僅かなお金の方が身銭を切っているだけ天国に近づいているとキリストは人々に語った(多分)
要するに魂を削るような事をできていなければ、多額の寄付も長時間の修行も何ももたらさないと。
本質的にクソみたいな念仏なんて実際には存在しないが、場所と状況によってはそのように見なされる場合もあるので、
祈りというものは決して無駄にしないようにしたいものである。
たとえ自分が無宗教に近い人間であるとしても、根底からの祈りや願いを否定してはならない。
宗教が宗教であるが故に権利主義的になるのは嫌だが、個人の心、信仰の細か過ぎるところまで規定され、
素直な信仰心を宗教に否定されたならどうしようもない。
祈る術もなき世の中こそ忌むべき世の中である。