発達障害をこじらせて私が話したくない人 | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

自分の行状を鑑みるに、とにかく人は選んだ方がいい。本当に選んだ方がいい。

さもないと実害が降りかかるからである。

人との会話が苦手だというのは、話題が合わないとかそういう問題ではなく、

会話自体がかみ合わないのである。それも感覚的に微妙に少しずつずれていって、

気がついたら取り返しのつかないところにいるから、何かおかしい、と思ったときには時すでに遅し、である。

私が話したくない人というのは、

 

・やけに正義感が強い人

自分の正しいことを人にも実践させようというのは、

自分の行動に強いこだわりを持つ自分のような人間には天敵である。

主義主張が噛み合えばまだいいのかもしれないが、噛み合わないときの本当に噛み合わないのは地獄である。

たとえ噛み合ったとしても、話が進んでいく内に、細かいすりあわせが出来なくなっていき、

結局自分には自分の正義、他人には他人の正義、となってしまうので、

スターリンとトロツキー、というか、要するに身内同士で内ゲバをするより他はない。

会話技術がないと、些細なことで喧嘩になりやすいから、正義感の強い人だと些細なことで対立しかねない。

従って最初から目を合わせないことが重要である。

 

・暗さを楽しんでいない人

そりゃあ暗いのを楽しむなんて間違っている、おかしいだろう、と言われるだろう。間違いではない。

暗さを楽しんでない人というのは、暗さをあからさまに暗く他人に伝染させる人のことである。

簡単に言えば過去の体験談、今考えても過去はどうしようもないのにも関わらず、

頭の中で延々と過去の一時期から動かないこと、

「そんな時代もあった」とか「問題は時間が解決する」とかいうか、忘れたりすることも出来ず、

妄執にとらわれたかのように一エピソードを克明に語って、誰かに同情とか憐憫を催させようとさせる。

一回ぐらいなら同情してもいいのかもしれないが、毎回手を替え品を替え暗いエピソードを話して、

どれを話したのかを忘れて延々ループを繰り返したり、前にした同じ話が微妙に話が違う、

とかになるともう同情しても金なんてやらない、というか話を聞き流せない自分が憂鬱になって、

食事の味がしなくなったり睡眠導入剤とか抗不安薬とかその他諸々の薬が増える羽目になるので、

というかあからさまに実害なので、暗い話をしてもなんか教訓でもない限り、

グチグチと過去に囚われて周囲を巻き込んでいるに過ぎない。

 

・独自の世界があることを理解しない人

私が自分自身で楽しむために余暇活動にはなるべく進んで取り組み、できる限りジャンルも増やる。

ただその過程で調べていることが先鋭化し、マニアックになり、専門化する。

そうして築き上げた独自の世界、というのは私の安全地帯であり、城である。

他人の趣味に対していちいち突っ込んだりもしないし、他人と楽しむことをそんなに想定していないので、

大体一人でなんとかする趣味を考案し構築し恍惚に至る。

別に見せびらかしたりもしないが、誰かに見られたときに一口突っ込んでいったり、

あれこれ注文をつけたり、思想的にああだこうだ、と言われるのは、

あくまで趣味は個人的なものである、と考える自分にとっては大いに苦痛である。

話が合う人を見つけるだけでも一苦労なので、こっそり一人で勝手に積み上げたりいじったり改造したり、

本当に地味な作業、本当の独自の闘いを続けられればよい。

わざわざ自分の庭に土足で入り込む人間によい思いなんて抱かないだろう。

別に誰かに広く理解されようとか、これで一財産築くとか、人気者になってやろう、

などと思ってやっているわけではないのだからわざわざ突っ込んでこないでください。

 

私は自分の世界に浸っていればあんまり外に出ないで済ましたいタイプである。

当然仕事はしなければならないが、パブリックとプライベートは分離させて考えるタイプである。

徹底的に人間関係を分解できるなら分解したいタイプである。

そこに仕事づきあいの気心の知れていない人が入ってきたらたまらない。無性に叩き出したくなる。

何か共通の部分でもあればいいが、少しずれると話が噛み合わなくなるので、

最後までお付き合いできる人間はきっと少ないことだろう、と言うか現在時点でほぼゼロである。

人付き合いなんて普通の会社でも全部やりたくてやっているものではないとは思うが、

それは別に障害者であろうと同じことである。

憐憫の目とか、やたら「してあげる感」が強い人とかと話すなら、逆に見下されていた方がいい。

世界を分けて棲み分けできるからである。

正義感が強ければ憐憫の目なんて執拗に向けられるし、

暗さを楽しまなければ同じ境遇だと言うことで愚痴を延々聞かされる羽目になり、

何でもしてやろう(上から目線)の人は時にプライベートに安易に踏み入りたがる。

そういう温度差の激しい人といると息苦しくてたまらない。

一人でいる人間が一人でいたいと言うからには、きちんとした理由があるのです。

そこを理解しないままで勝手に自分の世界に突入したらプッチン来るだろう。

健常者でも「これは引くわ」と言うことを障害者だから勝手にやっていい、

ということには決してならないだろうと思う。慈悲の心は押しがましさと皮一枚でつながっている、

それがわからなければ24時間テレビばりの偽善性、素直に「すばらしい」と言えない、

何か番組全体に漂う言葉に出来ない違和感を理解することは難しいだろうと思う。

徒に触れられるなら放っておかれることを望むわけである。

同情もいらなければ同情したことによる金もいらない、というのである。

 

という訳で収入は年金と足りない分は仕事や作業に自力で取り組んでなんとかします。

変な話を聞く余裕などないから、私はなるべく一人で動かなければならない。

自分の足りないところを全部福祉スタッフに委ねることもまた傲慢なので、

細かく、でもプライバシーに突っ込まれないように、調整してなんとかするより他はないが、

その過程でよくわからない人に絡まれないように注意しなければならない。

兎角この世は生きにくい。