国葬の話は冷酷そう(後編) | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

毎回東京の色々な話を聞く度に、東京、狂った街、babybaby、とは思う。

人も行事も威厳も尊厳も何もかもを雑に突っ込まれると本当に動きにくいです。

旅行に行った時も大分苦労しましたが(主に電車に乗る時)何処に行っても人人人人人だと人混みなんて滅多に出会わない田舎民は、

人の数だけでもうたくさんだ、と思うので、国葬だけでなく大きなイベントで行列とか、満席の集会とか、交通規制とか、

しかも国内だけでなく海外からも遠慮なく人が来る、とか、それだけで縁のない人にとっては立派な拷問だろうと思っている。

国葬をすることについては賛否両論あるだろうけれども、確実に非業の死、としか読めない亡くなり方をすると、

適当にすると示しがつかない、というか、急にいなくなる分のショックが重なって、きちんと弔わなければどうにもならない雰囲気になるのだろう。

そしてその横を空気を読まないかのようにデモ隊が「でも国葬はダメ」と言いながら通り過ぎる。

人の死も静粛に送り出さないのか、そんなに毎日大きな声を上げて生活しなければならないのか、

葬儀の場でも遠くから聞こえる怒号とブーイングに囲まれているならば、死んでも頭痛がするだろう。

それデモ隊の自分の隣の人が急死したら全く同じことをしますか、できますかとは言いたくなる。

エリザベス女王の葬儀の横でピストルズの方のGod save the Queenを歌うくらいにはナンセンスだろうと思うわけである。

No future, no future, no future for you、などと叫ばれて歩き回られるのも困るし、

No future for me、とか言われてもそりゃそうだろう、としか思えないのもどうかと思いますが。

という訳で人を弔うにもTPOと礼儀と品格は本当に重要だと考えるのである。

反対する自由、意思を表明する自由はなければいけないが、いつでもどこでもなんでも好きにやっていい、という訳では決してないのを、

安易にデモ隊を組む人々は考えていただきたいものである。

礼儀というか場面に応じた振る舞いが出来ない、という時点で何処か道を踏み外したと自覚出来ないのであれば、

デモ隊に参加する前に今やっている物事の是非を疑う事から始めるべきであるだろう。