ついに「こいつはまともに歌えば確実に上手いが、確実にまともに歌わない」と家族に言われてしまいました。
自覚はありまくる。というかパンクロック自体が反逆みたいなものじゃないか。
ポップスや歌唱曲なんてクソ喰らえ、というのは高校時代にポップスに嫌気がさして合唱やクラシックに逃げてから大して変わりません。
今はレパートリーにパンクロックとメタルが追加されただけです。
つまり大衆受けなんて最初から目指していない、と言い切れるわけです。
そんな人間に無理して歌物とかポップスなんて歌わせたら顔が軋むだろう。
好きな歌と嫌いな歌があって、自分が嫌いな歌を誰か歌うのに対して何も言わないけれど、
自分がメタルをやると大抵何かしら言われるので、もっと歌は平等になるべきである(意味不明)
妥協してその人のその人らしさが奪われた歌というのは本当に歌なのでしょうか。
よくみんなの事を考えて行動しましょう、と言われるが、歌を歌うときくらい縛りから解放させてくれとは思うわけである。
最近、というか数年、新型コロナによってカラオケボックスなんて行きにくくて仕方がないが、
多少の「音楽性の違い」を認められないのもどうか、などと思うわけである。
まあ「音楽性の違い」はよくあるバンドの解散フラグなんですが。
そもそも家族でカラオケに行けば演歌ばかりで出る幕がない。流石にメタルをやるべきではないのはわかるが、持ちネタをとられたら妥協しかなくなる。
なんか不条理だよね、と思いながら選曲しなければならないのは本当に苦労する。
歌いたい曲の90%以上を奪われた状態で何ができるのか、立場を逆転させて問うてみたくなる気分になる時もある。
私にはベタなことをベタにやるのが一番つまらない。歌でも同じである。普通のポップスなんて聞いていて疲れる。
つまり、なんというか、音楽に関しては水と油ばかりになって「確実にまともに歌わせてくれない」から「まともに歌いたくない」のである。
確実にへそ曲がりです。
私には私がわかる世界があればいい。最悪誰が居なくても、自分がまともであれば何とかなる、
カラオケボックスでいちいち好みを問い詰められたら、もう1人カラオケで良くない、となる。
本当に歌いたい曲を本気で、全力で熱唱したいなら一人で叫ぶしかない。
歌ってそんなに制約されなければならないものですか、と風呂場でデスメタルを歌いながら思う。
本末転倒である。