発達障害とかそういう類のものは何かと自称する人が絶えないが、
正直こういう厄介な障碍の名前というものは、ちゃんと精神の医者に駆け込んで、ちゃんとした検査を受けて、
ちゃんと親からなど親しい人からの生育歴の聞き取りなど、ちゃんと外堀を埋められて、
ちゃんと診断名が下ってから名乗るべきだと思うのである。
それを経ない自己診断などちゃんちゃらおかしい、自己判断はあくまでもきっかけであり、確定ではない。
個人的には、と言えばいくらでも言えるし、勝手にADHDとかLDとかASDとか名乗るのは不適切であろう。
障碍というものが「社会に著しく不適合を起こしている状態」であるから、
本当の(?)障碍とは大体どん底に沈んだ表現である。
どん底から自力で戻せる範囲で戻すのが、障害者福祉の主眼であるように思う。
あと、偉人とか成功者とか、いるにはいると思うが、大多数の人はだいたいそこまで達せない。
だから個人的には本にするにも成功者よりももっとそのへんの問題で躓いている市井の人々のほうが、
本来取り上げられて具体的な支援につなげられるべきものだと思うわけである。
障害者の中でも成功者があれこれ言うのは、エジソンが一般人にこうすれば成功すると説いているようなもので、
おおよそ現実的なものではない。
「それができればもう障害者ではないのではないか」レベルのことを滔々と語られても、
現実に障碍が生活に突き刺さっている人間にはまず届かないだろう。
統合失調症における「べてるの家」のような活動、当事者研究のようなものを、障碍に寄り添った、というか、
実質としてそこにあるものをそこにあるように取り扱うようにしなければ、
いくら当事者が「〇〇ができて人生うまく行きました」と言われてもライフハックの類にしか聞こえない。
上澄みは本当に上澄みであり、発達障害というものはそもそも個人差が著しく大きいものであるから、
知的障害でも境界線から重度重複までレベルと言うか著しい差があるようなものを、
「これこれをやったらうまくいきました」とかあんまり簡単に言って欲しくない。
それを読むのだったらちゃんとした専門の精神科医が書いた研究本でも読んだほうがいいだろう。
障碍とはそもそも普通のことがうまく行かない状態であるから、啓発書は最初に読むべきではない。
手短に、目前に、実感として有るものをすっとばして「これがやりたい、あれができる」などと言っても、
机上の空論の類であり、絵に描いた餅であり、実態に即していないものである。
自分が困るだけならまだしも、支援員や誰かを困らせてしまってはそもそもの課題は解決していない。
課題なんて自分を振り返ればすぐに見えるものだし、それが見えていないからこそ障碍なのである。
実際自分は社会人を数年やって人との差が足掻いても埋められないものだと実感したから受診を決意したのであって、
その時点で「何とか乗り切った障害者」との差は歴然である。
この辺、早期に発見された障碍と、成人になってから発見される障碍との差もあると思うが、
とりあえず言えるのは「できる限り早期に診断を受けることが重要である」ということである。
色々二次障害を抱えるようになってからでは対応が後手後手になりやすいので、
早めに発見されればその分対処する時間も学習する時間もできるから、対策を立てるなら早いほうがいい、
という至極当たり前のことしか言えない。
多分残りのことは現場に即した人の話になるだろうと思う。