文学青年の成れの果て | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

高校とか大学の頃は、よくある国語便覧に載っているような小説家とか、

倫理の教科書に載っている思想家とかの本を適当に手当り次第に読んだものである。

ジャンルが偏りすぎて、所謂現代小説とかいうものには手を触れていませんし、ラノベは見てみないふりをしました。

どういうわけか村上春樹には一切手を触れていません。

高校から太宰治とか芥川龍之介とか梶井基次郎とか読んだ人間の思想が偏らないはずがありません。

そこからもある程度何処かに暗い影を帯びたような作者の本を読みふけっていました。

そしてそのまま坂口安吾とかから横溝正史とかに行き、そのまま西村京太郎とか山村美紗とか推理小説に脱線して、

しかし自分でプロットは思い浮かばないので推理小説とかは書けず、

じゃあ(?)詩を勉強して自分で書いてみようじゃないか、からどういうわけか立原道造や中原中也に進んだので、

進む方向が最初から偏っているとしか言いようがありません。

そのあとも吉増剛造とか伊藤比呂美とか順当な偏り具合しか見せず、しかし合唱を嗜むのである程度の詩人の作品には触れ、

でも結果的にソネットとかを多用したまずどう考えても立原道造の影響ばかり受けているような感じになりました。

ソネットに飽きてからはジョン・ケージとかの悪影響を受けて現代詩のようなわけのわからないものばかり作りました。

なお内容は明らかにヴィジュアル系の影響を受けたどことなく暗い作風のものばかりです。

なんだよこの脈略のない思想を継ぎ接ぎだらけで強引に融合させたような感じは、と今となっては思います。

ぶっちゃけ毒電波以外の何物でもありません。その手の愛好家には何故か好評でしたが。

 

それから障害の診断とか色々あって、詩とかインスピレーションを持続する時間が短くなったような気がして、

こういうブログを書くことに時間を費やすようになったわけであります。

十代ぐらいから事あるごとに何かをノートに書きつけて保存しながら日々を過ごしてきたので、

いきなりブログで文筆活動未経験のまっさらな状態から文章書きを始めよう、とか思ったわけではありません。

ずっと自分にあった表現方法とは何か、を模索しながら過ごして、今はこれでいいかなと思うのであります。

これでも昔に比べれば表現も比較的緩やかになった気がします(個人の感想です)

このブログでも最初の頃と今では文体とか色々変化しているのではないだろうか、と思います。

文章を書くのは常に「今」なのでなかなか気づきにくいかもしれませんが、長いスパンで見れば大分違っているでしょう。

明らかに売れない三文文士未満ですが、別に利益に絡んでいなくても発表ができるだけまだ今は恵まれている、などと、

無料で自分だけのブログを作れるような時代が来てから常日頃思います。非常にありがたいです。

そして自分は何かを表現したいという軛からは逃れられないのであります。

生活に絡まなくても、書きたいものが書ける、ついでに見せる事が出来るという時代は、

自分にとっては相当に都合のいいものであります。所謂QOLの向上、というやつです。

それで生きている気がするならある意味もう十分ではないでしょうか。