調和の霊感 | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私は霊的なものとかスピリチュアルなものは信じない主義であるが、

文章はノリと勢いとインスピレーションで書いている、それは間違いない。
むしろ直感がなければ文章なんて書けない。
資料を読み解き、データを積み上げるのはまた別の作業である。
 
音楽も大体ノリと勢いとインスピレーションで演奏しているが、理論的な音楽とはなんだろうと思う。
合唱をやるときは、指揮者の指示に従い、楽譜に忠実に演奏しようとするが、
ギターやベースを演奏するときは、大体もう自分のやりたいようにやる。
とりあえずコード展開が合っていればなんとかなるだろう。
実際には技術の未発達、腱鞘炎等々でところどころ音符をなかったコトにするだけですが。
まあそのへんはクラシックと違って音符をまるまる再現しなくてもいい利点だと思う(意味不明)
合唱やクラシックも指揮者や会場で様々な違いが生じてくるが、
エレキギターはもう原曲の再現性など、
使うギター、エフェクター、アンプの組み合わせがあまりに膨大すぎて、
原曲通りに出来るなどという理想は、あるにはあるが実際存在しないのに近いものだと思っている。
近づけるという努力もロマンもあるが、奏でられる音は技術、音響、その他諸々の要因で、
まず間違いなく同じ音にはならない。
アンプやエフェクターの音を再現しようとして、デジタルで組み上げられるエフェクターでも、
実際に鳴らしてみれば、100%モデルを再現している、ということには決してならない。
そこが音楽の面白いところであるし、個性の発揮のしどころであるように思う。
 
例えばヴァン・ヘイレンの鳴らすギターのサウンドは「ブラウンサウンド」という名前がついているが、
ではヴァン・ヘイレンが常に同じギターで同じエフェクターを使って同じアンプで同じ音を鳴らしたか、
といえばそうではない。その日その日のノリや気分や会場の状態などでも扱いは変わるだろうし、
何処にいようと全く同じ物が用意できるわけでもない。特にアンプなどは真空管が入っているから、
まず簡単に移動できないような代物であるから同じものを簡単に用意するわけにも行かない。
その他の音響機材も当然故障や劣化もするので何時までも同じものは使えない。
そもそも人間は気替わりするものであるから、変えたいと思った機材は遠慮なく変えてしまうだろう。
そこでブラウンサウンドを再現しようとする人々は大体イメージであるところの「ブラウンサウンド」を、
自分の思ったとおりに再現しようとするが、それはヴァン・ヘイレンと似て異なる音であり、
何時のヴァン・ヘイレンとか何処のヴァン・ヘイレンとかとも言えないようなものである。
だけれども「ブラウンサウンド」を求めるロマンは音楽の理想像として必要だし、
理想を追い求める人間がいる限り、理想の音の到達点が急激に切り替えられるわけではない。
理想像はあるが、個々人の好みで若干置き換えられても根本が変わらなければ
概念的に、大まかに見て「ブラウンサウンド」みたいなものであり、
その若干異なる部分に個人の努力や願望が直感的に反映されているものである。
自分ならここを良くする、という直感が、ブラウンサウンドだけれどブラウンサウンドに似たような、
一種の理想像として継承されるべきもの、として奏でられるのである。
そしてブラウンサウンドを鳴らすことによって音楽が一種のイデアとして反映されるのであれば、
それはブラウンサウンドの名を借りた個々人の個性であり、直感であり、インスピレーションである。
音楽とは奏でる人間が変わっても単純な複製にはならない。
何処かに個人のインスピレーションが反映されるものである。
ブラウンサウンドというヴァン・ヘイレンのインスピレーションに、
個々人のインスピレーションを組み合わせた混合体のようなものが現在のブラウンサウンドである。多分。
逆に言うと、誰のインスピレーションの欠片もない音楽が、個性のないのっぺりした音楽なのである。
演奏が稚拙、下手であっても、シャッグスとかの色々振り切った例もあるように、
単純に技術なんてないから、悪いとは言えないのも音楽の味である。
 

ヴァン・ヘイレンの曲ではないが、

 

 

 

ここまで同じ曲を違うように演奏されると、何か見えない意図を感じてしまうような、

下手だけれども単純に下手とも言えないような何か味を感じる場所があるわけで、

上手さとは何か、下手とはなにか、ということを直感的に考えてしまうのであります。

 
閑話休題。
まあ、ちゃんとしたホールと、四畳半の部屋で奏でられる音が同じなどとは思わない。
そもそもアパートで大音響を鳴らした日には部屋を追い出されるだろう。
部屋でみみっちい音を鳴らしながら、いつかはちゃんとした会場で音を鳴らしてやる、
と、去年丸々新型コロナウイルスで潰れた演奏会を思いながら奏でる。
考えに詰まると、「どんな前衛音楽を流してやろうか」という発想に至るのは定説です。
そしてそこもインスピレーションの発散であると思います。