発達障害とマスクと一当事者の話 | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d1b4d68087c3a5f827736c700eab38c17c08f0cf

 

発達障害のある人の中で56%ほどが「特性のためマスクを付けるのが難しい」とか、

WHOも発達障害のある子供にマスクの着用を義務付けるべきではない、とか、

まあ色々言われていますが、自分は残りの44%の方の人間ですか。

アンケートが来た覚えはありませんが。

 

発達障害者の半分が障害が原因でマスクを付けるのが困難だとか、他の国ならまだしも、

色々集団の規律に重きを置く日本だとおちおち外も出歩けない。

むしろ歩かないほうがいいのではないか。

 

そういう自分も作業所にマスクを付けながら通所しているけれども、

公共交通機関で大体一人か二人ぐらいは何食わぬ顔でマスクを付けない人がいるわけで、

どうこう言いたくはないが、離れたくはなる。

別に障害の特性がとか、何がどうとか言わなくても、暑くなればマスクは湿るし、

長時間つけていると張り付いて多少嫌な気分にはなる。

ただそれはマスクを付けているすべての人に平等に降りかかる問題であって、

命がかかっているときに障碍どうこうで済まされるものですか、

と記事に載っている障碍の当事者が言ってみる。

 

自分は冬に、とにかく熱の籠る服なんて着たくもないし、そんなもの着るくらいなら帰る、とか、

平気で言うのだが、別にそれは帰れるし、着なかったから急に命の危機にさらされるわけでもない。

代替品もある、というかそんなに熱の籠もらない服があればそれでいい。

服を着ないことで誰かが生命の危機に陥るのであれば妥協もするだろう。

しかるに今回、マスクを付けられないと言っているのは、

「感染を防御する方法」を選択できないのであって、権利とかなんとか言っていられる状態ではない。

誰かに移してしまってその人が亡くなった場合、良心の呵責に耐えられますか。

いくらコミュニケーション能力がなかったり、社会性がないとか言われても、

自分のやった行為の結果で間接的にでも誰かを死に追いやることに納得できますか、

と聞かれたら、そんなことは耐えられない、と即答する。

 

誰もいないところなら、マスクを付けないという自由はあるし、あって然るべきである。

しかし、人と人が関わるようなところでは、誰であろうとある程度の自由は制限されないといけない。

障害があるから何でもフリーパス、というわけには行かないだろう。

だからマスクを付けるのも臨機応変に、と行きたいところだが、

その臨機応変が特に苦手なのが発達障害、という本末転倒な事になっているので、

それなら外に出てマスクを付けていられないなら外出を控えるべきである、

つけるならずっとつけているべきである、という極論に陥る。

で、自分はマスクが汗や雨で濡れようが、クソ暑い真夏だろうが、自転車を全力で漕ごうが、

文句を言わないで外ではいつでもマスクをすることを選択しているのである。

 

兎角、この世は生きにくい。