自分が精神科に発達障碍の診断を受けに行ったのは、ある意味人間に疲れ果てたからである。
学生時代からなんか協調性に欠けるとか散々言われてきたが、
社会人になっていよいよその欠点が顕著にあらわれ、日常生活に支障をきたすようになった。
一体何処まで何をやれば完璧になるのか、何をもって普通と成すのか、
とことん無能呼ばわりされ改善点らしい改善点も見つからず、途方に暮れはてるだけであった。
今でも都合のいい一部分を除いて思い出したくもないことばかりである。
そしてふさぎ込んでいるのが続いた結果、本当に何もかもに疲れ果てたので、
もう自分にしか原因がないと考えて精神科の門を叩いたのである。
他人に責任を押し付けるにはあまりにも未熟すぎる。
だがこれ以上頑張る事を続けると自分が潰れる。
死ぬとか簡単に言うけれどそんな簡単に済まされる話ですか。
ただ、自由とか平等とかを建前にしても、勝手に何事も行ってよいはずもなく、
実際自分のやったことは周囲を振り乱すだけだった。
自分も他人も遠慮なく振り回せば自分が幸せになれるかといえばそうではない。
むしろ自責の念にかられるものである。
家に帰って一通り頭を抱えて、娯楽に逃げる以外他にしようがなかった。
そして次第に逃げることにも疲れてくる。
普通ってこんなに辛いものですか、若い時の苦労は買ってでもせよとか言うけれど、
苦労という段階を超えて苦痛とか苦難とか言われるレベルに達しているのではないか、
元から厭世的な部分はあったけれど、人に交われば交わるほど苦痛が増すので、
やっぱり本質的に人間に疲れ果てたとしか言いようがない。
それから診断を受けて、実際に診断が下ってから、もう人間関係とかを、
ぶん投げたり自然消滅させたりして削って削って、
もう一回仕事に戻ってもう一回蹴り飛ばされ、を繰り返して健常者になることを諦めた。
人間に救われる部分なんて一体何でしょうね、自分のやった行いが報いとして返ってくるならば、
まさに因果応報としか言いようがなく、やったことがだいたい悪行と判断されるようなものであった。
それで世の中が嫌にならないはずがない。
よく発達障碍者は自己肯定感が低いとか言われるけれども、
やることなすことまるで駄目で、結果が報われなければ自然とそうなるものだと思っている。
褒められもせず認められもせず、どうやって成長するというのか。
ただまあ、それも自業自得(当然悪い意味で)の結果だから、どうあがいても絶望である。
人間社会性とか協調性とか欠ければどうなるものかは、嫌というほど自分が示している。
他人に迷惑をかけたくなければ、自分の場合社会に出ないことが最善だと、
そんな思考が頭の中をぐるぐると何回も繰り返し回り続けた。まあ実際そうなんですけど。
自力でなんとかしようと思う試みは、大体粉々にされておじゃんになった。
そもそも自力で何とかなったら障碍とか微塵も可能性があるはずもない。
それこそ普通の「健常者」として生きているはずである。しかし現実はそうならなかった。
あらゆるものから疎外されて、自分も自分を疎外するようになって、
やっとそれなりに精神的平穏が戻ってきたと言えよう。
ただそれも周囲の犠牲の上に成り立っているものなのですが。
人間なんか大嫌いとか、一言で済ませるものなら済ましてしまいたい。
人に迷惑を掛ける自分が嫌だし、人に振り回される自分も嫌である。
しかしそんな事を言っても問題は何も解決しない。
人間よりも福祉という社会制度の網の片隅に引っかかっていたほうが、
自分としては平穏に生きていられる。
むしろそうしないと本当に迷惑がかかる、本当に厄介者である。
厄介者だと自分を認識するのもどうかと思うが、行状を考えれば厄介者としか言いようがない。
ただ犯罪に手を染める気は毛頭ありませんが。
むしろバッサリ斬られたほうが平和ではないかとまで思うときもある。
自分の障碍を自認出来ることは果たして幸せなのかどうか、今でもはっきりわからない。
ただ障碍という名前がなくても、動けば周囲に迷惑を与える人間だということは明らかである。
そうしてこうやってネットの片隅で毒を吐きながら、
「やっぱり片隅っていいよね」とか理解不能な譫言を吐き続けるのである。
言わないと「障碍のある人間が何を考えているのかわからない」とか言われるままになるので、
障碍の当事者としてはちゃんと意味のある言葉を発しなければならない部分もあると思いますので。
というかそれが良かれ悪しかれ自分の存在意義だと思っている。
隠れたいけれど隠れればもっと悪く言われるのであれば弁明するしかない。
もう言い訳とか言い逃れとかになっているとは思うが、それでも自分の言葉で、
自分が何であるかを「この人を見よ」と言葉で見知らぬ誰かに、
そして何よりも自分に突きつけなければならないのである。
それで人間に疲れるのであればもう仕方がない。必然であり、運命である。
もう個人であがいてもどうにもならない部分である。