そういえば自分が死ぬことなんてないように、
なぜ生きることを前提に何事も組み立てられてしまうのか、
とか保険の文章とか旅行の広告を見ながら思う。
いくら計画しても、そのへんで車にでも轢かれれば全部台無しでしょうに。
この間誰かの車が路上でひっくり返っているのを見ていたらそんなことを感じた。
人は死ぬのに、肝心の死ぬ場面を見ていない、というのが良いことなのかどうか。
そのへんを考えると看護職とか介護職とかにはとにかく頭が上がらない。
下手をすればトラウマレベルになる出来事になる(なってしまっている)のに、
というか食べ物以外の死体なんて虫以外なんてそもそも見られるのか、
スーパーで一尾丸ごとはともかく、切り身になっているのは正しく死んでいる生物なのだろうか。
本来どのような生物も死ぬはずなので、死が近くにあるはずなのに、ある方が当然なのに、
ついでにいうと自分もいずれ死んでしまうのだが、
あたかも遠くに行ってしまったような感覚を覚えるのは、果たして良いことなのであろうか。
新型コロナウイルスが流行して、感染が広がると当然のように自粛をし始めたのは、
やっぱり死にたくないという本能がそうさせるのであろうか。
あれこれ考えるとやっぱり死にたくはない、
死ぬけど今死にたくない、という意識がそうさせるのだろうか。
得体のしれない生命に危機をもたらす存在が急に近寄ってくると、
恐怖とか不安とか憂鬱とかを感じてしまうのは、可能性によっては自分が死に至る、
あるいは終わってしまうのだからその直前ぐらい好きなことをやりたい、
という根源的な部分がつい表に出てしまうからなのだと思う。
まあ諦めモードになってBBQを始めるのだけはなんとも理解し難いのですが。
なにか災害が起こって、その時に急に方向転換をするとか、
死にそうにならなければ方向転換なんてしない、と言っているのと同じようなことで、
どれだけの物事が明日生きているという漠然とした保証の上に積み上げられているのだろうか。
明日起きたら生活のパラダイム・シフトが起きている可能性もあるわけで、
生活というのは世界が明日もそのままであるという期待、という前提の上に成立している。
死ななくても危急のことがあればそれなりに方向は変わるのに、
というかその危急の事態が今回の新型コロナウイルスなのであって、
得体のしれない方向に生活がねじ曲げられていくような感覚を覚えるのであります。
もしかしたらこのへんで死ぬんじゃないか、という予感を後ろに置きつつ。
死を考えなくていいのはある意味ありがたいけれど、それで生命の本質、
死にたくなくてもいずれ死んでしまう、ことを忘れてはならないと思います。
死なないのは桜の花がずっと散らないでいるのと同じように無理な話である。
生きることを伸ばすことが出来ても死という本質からは逃れられないものである。
むしろ伸ばすほど虚しさが却って目立ってしまうものだと思います。
延命治療とか安楽死とかの問題に触れると、生を延ばすこととは一体何なのか、
とか思うのが全く不思議ではないように。